ももいろそらを(小林啓一) その1

 新たな青春映画の傑作だ。

 この作品の魅力は、何といっても、女子高生三人組のリアルなマシンガントークだろう。三人が、それぞれのキャラを演じながら(そのうちの一人「蓮実」は、その日の気分で呼び名も変える)、瞬間瞬間で妙にハイになったり、落ちこんだり、ジェットコースターのように浮き沈むテンションをそのままぶつけ合う。意味もなく、「バーカ」「は? バーカ」と繰り返し合うような、今どきの女子高生の「鼻につく」トークの応酬が、これでもかと繰り広げられる。

 だが、作品のテーマは、意外にも深い。いわば、主人公「いづみ」の「思想」と「実践=行動」のズレの問題なのだ。

 冒頭、2035年に40歳になっている、いづみの思いを綴った文章から作品は始まる。

 

何らかの罪を犯した/たぶんこれからも何らかの罪を犯すであろう/善を求めるなら/全てを受け入れなければならない/私はいまだにできないでいる 2035年9月 いづみ。


 モノクロ映像なのも、いづみが、女子高生当時を振り返るという設定だからだろう。

 だが、この後、その言葉に見合うような深刻な事態が作品に起こることはない。学校をさぼって、釣り堀に入り浸っているいづみは、まさに「釣り堀」のように狭い世界を、まるで海と錯覚しているかのように、自由気ままに泳いでいる。そして、偽善と欺瞞に満ちた世の中に毒づき(毎日、新聞の記事を採点し、「−10」「−20」と裁断しまくる)、自分だけはフェアネスを貫いて生きていると思い込んでいるのだ。

 だが、道に落ちていた30万円を拾った時から、その自由とフェアネスが徐々に揺らいでいく。当初いづみは、財布の持ち主の「佐藤」が、天下りの父を持ち、豪邸に住んでいることを突き止めた結果、「どうせ汚ない金だから」と、金に困っている釣り堀仲間の印刷屋の男に、全額譲り渡そうとする。弱者の味方であるという、反体制のフェアネスを気取ったつもりだったわけだ(監督によれば、いづみのモデルは「寅さん」だという)。

 印刷屋は、当座困っている20万円だけ借りておくと、頑なに残りを受け取ろうとはしない。この、手元に曖昧に残ってしまった10万円によって、いづみのスタンスがすべて中途半端になり、自由もフェアネスもなし崩しになってしまうのである。

 そして、この後、この金をめぐって、さらに物語は展開していく。(続く)

中島一夫