別離(アスガー・ファルハディ)

 「アラブの春」が混迷をきわめている。
 次々と長期独裁体制を打倒していった、アラブの若者たちによる民主化の波は、だが選挙を通じて、ムスリム同胞団などイスラーム原理主義集団に、その成果を簒奪されつつあるように見える。まるで、1979年のイラン・イスラーム革命によって、実権を握ったホメイニ師をはじめとするシーア派が、その後世俗派を排除していったように。革命が起こるや熱狂的に支持を表明したものの、その後実態が明るみになるにつれ幻滅を覚えていった、あのフーコーの姿が思い出される。

 山内昌之も言うように、「日本では「アラブの春」という名前に惑わされ、非アラブのイランで起きている出来事こそ民主化の本質や地域の政治力学の激変につながることが見落とされがちである」(『中東 新秩序の形成 「アラブの春」を超えて』)。

 このイラン映画を通して見えてくるのは、まさにこのことだ。といっても、この作品で描かれるのは、イランの政治状況ではない。丹念に描かれる生活者たちの視点を通して、自然にイランの「いま」が浮き彫りになっていくのだ。

 首都テヘランに住むアッパーミドルの夫婦、ナーデルとスィーミン。冒頭、家庭裁判所でそれぞれ離婚の申し立てをしている。妻スィーミンは、一人娘の将来を思い、家族でカナダへの移住を望んでいる。おそらくは、先に触れたイラン・イスラーム革命の「反復」のごとき反西欧化・イスラーム化に対する漠然とした不安からだろう。だが、夫の方は「この国に将来はないのか」と真っ向から反対する。とても認知症の父を一人残してはいけないのだ。

 一見、妻の主張は身勝手に聞こえる。だが、彼女には、グローバル化する世界とイスラーム化するこの国とのギャップが感じられてならないのだ(彼女はリベラルな英語教師でもあり、西洋的な風貌をした国際派女優レイラ・ハタミが演じている)。ヒジャブ(スカーフ)を着用しなければならなかったイラン女子サッカーチームが、オリンピック予選で失格となった事件も記憶に新しい。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2011/09/post-2254.php

 作品は、家庭裁判所のシーンに始まり家庭裁判所のシーンに終わる。それは、彼ら夫婦の、またその「別離=離婚」に巻き込まれる登場人物ら相互の対立・係争が、単純に法=正義によってどちらが正しいとも裁けない、出口のなさを物語っている。いわば、これは裁判所から出られない人々の物語なのだ。

 結局、スィーミンひとり家を出ていく。日中は銀行員として働くナーデルは、留守中父の介護をしてくれる家政婦ラーズィエを雇うことに。貧しく、夫も失業中の彼女は、敬虔なイスラム教徒でありながら「夫が妻子を養い、妻は夫に従う」というイスラムの教えに背いてまで働きに出なければならない。彼女が、ナーデルの父が失禁したとき、その後始末をすることが合法かどうか、電話で確認するシーンにははっとさせられる。親族以外の男性の肉体(排泄物も含む)に触れることが許されないイスラーム社会においては、そもそも「介護」が成り立たないのだ。

 ラーズィエが家に出入りするようになって、訴訟問題に発展する大事件が勃発するのだが、事件そのものには触れずにおこう。おそらく観客は、最後に隠されてきた事実がすべて明るみにされてもなお、どちらが正しいかを判断できないだろう。ここでは、さまざまな価値観が衝突し、誰ひとり超越的なポジションに立つことを許されないのだ。

 なかでも、アッパーミドルのナーデル一家と、ロウアークラスのラーズィエ一家の対立は、経済的格差にイスラーム信仰が重なり、複合的な矛盾をつくり出している。二言目には「俺には失うものがない!」と語気を荒げるラーズィエの夫は、おそらくイランの貧困層のうっ憤といらだちを体現していよう。そして、彼らぶ厚い貧困層こそが、アフマディネジャドを選挙で大統領に押し上げたのだ。

 鍛冶屋の息子たるアフマディネジャドは、蓄財に走り腐敗しきっている高位の宗教者らを批判し、純粋なイスラーム革命の精神再生を訴えることで、下層民たちの圧倒的な支持を獲得した。イランの代表的な映画監督であるキアロスタミやマフマルバフなども、その後は離反するものの、当初は彼を支持していたようだ。

 問題は、こうした政治的勢力に対して公正・中立であるべき、シーア派の最高指導者ハメネイが、アフマディネジャド陣営に公然と加担してしまったことである(この現象を、山内昌之は「終わりの始まり」と呼ぶ)。全能の裁定者という超越的な権威を自ら放棄し、世俗の権力争いのフィールドに下りてきてしまったのだ。これによって、イランの伝統的な「法学者の統治」が崩壊、もはやこの国では誰も超越的な立場に立てずに公正さの担保を喪失した。

 係争に明け暮れる「別離」の登場人物たちは、こうしたイランの混迷をもがき苦しみながら生きている。ナーデルとスィーミン夫婦の「別離」は起こるべくして起こってしまった。ラスト、夫婦が出て来た家庭裁判所の部屋の、そのまた奥の部屋からは、また別のカップルのけたたましいののしり合いが聞こえてくる。この夫婦だけではない、今、この国全体が裁判所から出られないのだ、とでも言うように。

中島一夫