トガニ――幼き瞳の告発(ファン・ドンヒョク)

 韓国社会は、想像以上に壊れているのだろうか。
 先日の「朝鮮日報」の記事にはこうある。「世界最高の自殺率、伝染病のように広がるうつ病、学級崩壊、増加する性犯罪、大統領府や国会から工事現場の寄宿舎に至るまで漫然としている腐敗や汚職…」。「韓国社会はアノミー(混沌〈こんとん〉状態)に陥っている」と。(ユン・ヨンシン社会政策部長「希望不在の大韓民国」8月19日「朝鮮日報日本語版」)

 やはり、97年のアジア通貨危機に端を発するIMF危機が大きかったようだ。対外債務不履行=デフォルト危機に見舞われ、実質的な国家財政破綻状態に陥った韓国は、IMFの救済融資を申し入れるほかなかった。だが、もちろんそれは、国の仕組みを一変させる、大規模な構造改革と引き換えだったのである。先の記事は続ける。「アジア通貨危機というもう一つの大衝撃は、貧富の格差や階層間の対立を増大させ、階層上昇のはしごを切り捨て、アノミーの爪をさらに鋭くとがらせた」。

 『トガニ』は、まさにこの「階層上昇のはしごを切り捨て」られた、韓国の「アノミー」を描く。これは、2000年から6年間、韓国の聴覚障害者学校で実際に起きた、教員たちによる生徒への性的暴行・虐待事件を告発するサスペンス映画である。だが、そうでありながらも、わざわざ霧深い架空の田舎町=ムジン(霧津)を舞台として設定しているところに(実際には光州市で起きた事件)、事件の告発のみならず、社会状況そのものを描き、そこから事件を問おうとしていることが現れている。

 「トガニ」とは「坩堝(るつぼ)=耐火性のつぼ、熱までも閉じ込める深皿」という意味だ。まさに事件は、この霧に覆われた出口のない閉鎖的な空間=「坩堝」で起きた。だが、作品空間を見通しが悪く息苦しくさせているのは、何も名物の霧ばかりではない。ここでは、すべてが閉ざされているのだ。

 ソウルからやってくる主人公の美術教師イノ(コン・ユ)が赴任する聴覚障害者学校の生徒たちは、孤児だったり親も障害をもっていたりで、閉鎖的な寮生活(収容所のベッドのようだ)を余儀なくされている。そもそも、彼らは聴覚障害のために、物音や叫び声が聞こえず、いわば音に対して閉ざされた状態にあるのだ。

 学校経営も、トップの校長と行政室長が、見た目には区別のつかない双子であり、家族経営という以上に奇妙で濃密な閉鎖性を見せている。教員室における殴る蹴るの暴行も日常茶飯事で、他の教員は咎めもしない。ここでは「見て見ぬふりをする」必要もないほどに、全体が「坩堝」のように閉ざされている。

 学校内だけではない。学校を取り巻く状況は、より一層閉鎖的だ。学校に出入りする警官は、学校側と癒着しているために、虐待が外に漏れたり裁かれたりすることもない。被害者の子供たちを守ろうとする美術教師のイノとヒロインの女性との共闘によって、ようやく事を明るみにし裁判に持ち込むものの、司法の場自体が慢性的に閉鎖的な構造なのだ。

 いわゆる「ヤメ判」弁護士のデビュー裁判は勝たせることになっているという、「前官礼遇」というしきたりがその最たる例である。ここでは、判事、弁護士、検事が、役割を交代しながらロールプレイをしているだけで、司法全体がこれまた「坩堝」と化している。

 では、「坩堝」に風穴は開けられないのか。イノとヒロインが、期せずして別々に、いらだちのあまり車の窓ガラスを割ることは、この二人だけが「坩堝」を打ち壊そうとする存在であることを告げている。

 だが、所詮それも、この幾重にも閉ざされた「坩堝」に対して、個人の腕力で割れるぐらいの微々たる風穴ぐらいしか開けることはできない。イノの母も「皆、善悪の判断ができないんじゃない。生きていくために仕方なくそうしている。お前も自分の娘のことを考えろ」と諭すばかりだ。結局、裁判も最終的には敗北、被害者の男子には悲劇的な結末が待っていよう。

 だが、「風穴」は、作品公開後に、思いのほか大きく開くこととなった。昨年韓国で460万人の観客動員を記録、事件は広く知られるようになり、国家や社会を動かしていった。何食わぬ顔で平然と事件後も加害者の教員が教壇に立ち続けていた学校にも、ついに再捜査の手が入り、やがて廃校に追い込まれた。また、「トガニ法」と呼ばれる障害者児童に対する性的暴力を罰する法改正がなされ、映画にも登場する行政室長には、求刑以上の懲役12年の判決が下った。

 裁判のとき、虐待された女子生徒の耳に奇跡的に聞こえたあの音楽の調べのように、はじめはかすかに、やがて力強く、作品の力は閉ざされた事態に働きかけていった(同じく裁判のとき、彼女が機転を利かせ、手話の力によって、校長と行政室長の双子の閉鎖性を突き崩していった、あの胸のすくシーン!)。作品中においてはまだ小さかった「風穴」が、映画とそれを見た観客によって、広く大きくこじ開けられていったのである。

 なるほど、実際にあった悲惨な性的虐待事件を、こんなにも「面白く」仕上げていいのかという批判もあろう。だが、インタビューなどを読むかぎり、原作者コン・ジョンも、監督も、原作に出会って映画化に奔走した主演のコン・ユも、そのあたりは先刻承知のうえだったのではないか。

 彼らは、はじめから、事件を社会に向けて広く訴えていこうというスタンスで出発しているのだ。まずは広く見てもらえるように、一個の作品として「面白く」あろうとしたこと自体、覚悟のうえでの決断だったと理解すべきだろう。「もしかすると、最後の作品になるかもしれない、とは思っていました」と覚悟を決めていたという監督や、綿密な取材を重ね、小説にしたのはごく一部で「現実はもっと酷かった」と語る原作者に対して、それについて、さらに何か言うことができるだろうか。

中島一夫