かぞくのくに(ヤン・ヨンヒ)

 8・15に見に行った。
 この間、にわかにきな臭くなってきた領土問題ひとつ見ても、戦争が終わったと思い込んできたのは日本人だけではないか。

 確かに、8月15日以降になってソ連へと運ばれ抑留されることで、継続する戦争に否応なしに巻き込まれていった石原吉郎のような人ですら、「戦争を政治の延長として考える立場が、私には徹底的に欠けていた」と振り返っているほどだ。ましてや、戦後民主主義という「神話」の中に育った日本人においてはなおさらだろう。

 だが、まずもって、この『かぞくのくに』が告げるのは、「北朝鮮」とはあいかわらず戦争が継続しているという、ごく当たり前の事実である。

 戦争=政治の渦中にあるからこそ、脳の病気の治療のために、二十五年ぶりに北朝鮮から戻ることを許された兄のソンホ(ARATA改め井浦新)には、「同志」の監視役(『息もできない』のヤン・イクチュン)がつきまとう。また、兄が、妹のリエ(安藤サクラ)にスパイの仕事をもちかけるのも、与えられた使命であり任務からだろう。

 それは在日コリアン二世である監督の実体験のようだ。そのとき監督=リエは、兄が断れないことを知りつつも、「自分に言う前になぜ断ってくれなかったのか」という複雑な思いだったという。そして、自分が断ったときの、兄のほっとした表情。

 「かぞくのくに」というタイトルは、兄が家族を作って住むあの国と、自分が父母とともに住むこの国とが引き裂かれてあるという、その両者の隔たりのみを示しているのではない。ここには、とある「かぞく」が統治するあの国とこの国という二つの「くに」が、自分たちの「かぞく」の中に権力として否応なく食い込んでいるという、今ここにある戦争=政治に対する痛みをともなった認識がある。ひらがなの「かぞくのくに」には、「かぞく」と「くに」の問題が重層的に折り重なっているのだ。

 ホテルの部屋でくつろぎながら、物珍しそうにAVを見ていたヤン・イクチュンが、唐突な帰国命令の電話に直立するシーンが妙におかしい(当初、三か月の予定だったソンホの滞在期間が、病気を治療する間もなく急に一週間で打ち切られたのは、ひょっとして彼が妹のオルグに失敗したからか。もちろん理由は告げられない)。監視の彼はまたコーヒーの飲み方が分からず、砂糖とミルクをがばがば入れてしまっていた。こうした細やかな演出が心憎い。

 とりわけリアルなのは、登場人物たちがむやみに泣きじゃくったりせず、非常に感情を抑制していることだ。監督自身も言うように、息子との急な別れにも、「お母さんは在日のお母さんだから、韓流のお母さんのように「アイゴー」って泣き崩れたりしない」(「OUTSIDE IN TOKYO」におけるインタビュー)。

 母(宮崎美子)は、悲しみにくれながらも、向こうで息子が世話になるからといって監視の男のために背広を新調してやるのだ。あの国に家族全体が翻弄されながらも、結局母は「祖国を信じるしかない」。それは、朝鮮総連の幹部だという父も同様だろう。

 一方、子供たちはどうか。息子を帰還させたことを「仕方がなかった」と嘯く父に、ソンホは「お父さんはいつも同じ話しかしてくれないのですね」と反発する。また、帰還を激しく後悔し泣きじゃくる伯父の脇で、リエはもらい泣きどころか、「また同じ話か」とばかりにうんざりした表情を浮かべるのだ。

 一九五九年から始まった「帰還事業」を否定しようとも受容しようとも、子供の世代にとっては親の世代のツケを払うことにはかわりがない。いつだって彼らの話は偽善に満ちており、未来志向のかけらもなく同じ話の堂々巡りだ。先のインタビューで監督はきっぱりという。「家族がいるからということで、みんな言いたいことを言わずに、親の世代というか、私の世代までやっぱりみんな北と関連のある人たちは黙っちゃってますけど、もうそういうのは終わりにしたいと思います」。

 前二作のドキュメンタリー『ディア・ピョンヤン』、『愛しきソナ』において、北朝鮮で暮らす家族のごく普通の生活を映し出したこの監督は、それによって北朝鮮に入国禁止となった。したがって、今作でのドキュメンタリーからフィクションへの移行は、この監督にとって「選択」の問題ではあり得ない。

 メディアで垂れ流されるのとは違う、「ふつう」の生活が描かれているからか、目を見張るような映像が見られた前二作に比べると、正直、今作は画面に迫力不足を感じるところもあった。

 だが、この「くに」には、このような「かぞく」が当たり前のようにいること。このこと自体が当たり前のようになっていくところからしか、一国主義的な戦後民主主義の「神話」は解体されないだろう。もちろん、それは一方的な問題ではあり得ない。そのとき同時に「在日」という問題も、真に問われはじめるのだ。

中島一夫