アジアの純真(片嶋一貴)

 その過激な内容から、映画館が公開に二の足を踏んでいるという。だが、いったい、何がそんなに問題なのだろうか。

 2002年、小泉訪朝によって北朝鮮拉致被害者五名が帰国。北朝鮮バッシングが巻き起こるなか、チマチョゴリの女子高生がチンピラにからまれ、差別的な言葉で罵倒された挙句に公衆の面前で殺害される。

 一部始終を見ていた公衆の中には、以前、かつあげされていた時彼女に助けられたという男子高校生がいた。だが、ヘタレの彼は、助けに入るどころか、声一つ上げられずにそのまま彼女を見殺しにしてしまう。その後、彼女の双子の妹とともに復讐の旅に出ることで、彼はヘタレを卒業できるのか? チラシには「見て見ぬふりは、もうヤメだ!」。

 あのとき助けられた彼は、ジャ・ジャンクーの『長江哀歌』よろしく、ペットボトルの水を飲む彼女に惹かれる。「もう一度会えたら名前を教えてあげる」。彼女の言葉を頼りに町中を探し回り、ようやく探し当てたのが、その現場だった。

 あのとき普段着だった彼女が、今はチマチョゴリを着ている。それを目にした瞬間、何とも言えない嫌な顔をし、思わず目をそらす彼。この彼のひるんだ表情に、この作品のすべてが賭けられていると言ってよい。もし、このショットがなかったら、彼が助けに入れなかったのは、単にヘタレだったからということになってしまう。この一瞬の「ひるみ」が、助けてもらった恩を返せないばかりか、差別を「見て見ぬふり」する側に加担してしまうという二重の負債を、彼に背負わせることになるのだ。

 何となく見ていて思い出したのは、広島の被爆者詩人、栗原貞子の、「ノーモア・ヒロシマ」とだけ言っていてもアジアでは通じないという詩だ。「〈ヒロシマ〉というとき 〈ああ ヒロシマ〉と やさしくこたえてくれるだろうか 〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉 〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉 〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を 壕のなかにとじこめ ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑 〈ヒロシマ〉といえば 血の炎のこだまが 返ってくるのだ」。

 拉致家族者の片眼が講演中に落ちてしまうシーンは、その被害の側からしか見ない一方的な「語り」に対する違和をこめたものだとしても、ブラックユーモアをこえている。おそらく、このあたりが問題のシーンなのだろう。だが、この後、双子の妹と彼が、旧日本軍の残したイペリットガスの詰まったビンを会場に投げつけてテロを仕掛けるシーンにしても、言葉でいうと直線的に聞こえるが、スローモーションを多用したりして実際はひたすらコメディタッチで描かれていることも事実だ。

 この毒ガスは、毒ガス工場のあった大久野島(まさに広島にある)や、細菌戦のための特殊部隊であった七三一部隊などを想起させる。わざわざ、旧日本軍の毒ガス兵器をテロに使ったのも、彼女らの復讐が、姉を殺されたという私的な動機を超えて、「アジア」による「復讐」として位置付けたかったのだろう。

 だが、作品のウェイトは、こうした復讐にあるのではない。「世界を変えたい」といって手に入れた毒ガスを、彼は警察に撃たれた彼女を助けようと残りのすべてを使ってしまう。彼にとって、「世界」は二人の「セカイ」にすぎなかったが、その行為によってヘタレを脱し戦う男に変貌していき、以降彼を取り巻く「世界」は劇的に変わっていくことになる。

 また復讐がテーマではないことは、妹の言葉からも明らかだろう。妹は、テロの声明の中で、「日本も北朝鮮も嫌いだ」と叫び、彼に対しても「この国でもあの国でもないどこかへ行こう」と告げていた。

 彼女の言葉は、舞台が2002年の小泉訪朝と平壌宣言後であるだけに、そのとき金正日が、公式に拉致を認めたうえで謝罪したことを受けていると見なすべきだろう。この北朝鮮自己批判は、この国が、社会主義国としての「正義」を決定的に放棄したことを告げた事件だった。以降、東アジアにおいて、反米を表明できる国家はなくなった。

 もちろん、アメリカのヘゲモニーなどとうに失われている。だが、むしろそのことが、ネグリ/ハートのいう出口のない「アメリカ=帝国」をもたらしたのだ。ウォーラーステインもいうように、「帝国主義」的な段階とは、ヘゲモニー国家が不在だからこそ諸国家のヘゲモニー争い、すなわち戦争の危機をはらんだ閉塞状況に陥ることになる。

 すると、「あの国でもこの国でもないどこか」とは、単に日朝ではなく、「帝国=戦争」の「外」ということになろう。最後、彼が、(空想の中で?)世界戦争の戦場に放りだされるのもそのためだ。彼は、このときはじめて「世界を変えたい」という言葉の真意を知る。

 本作の脚本家である井上淳一は、作品のモチーフとして、拉致問題による北朝鮮バッシングのみならず、9・11以降の「アメリカ=帝国」によるイラク戦やアフガン戦略に対する怒りのようなものだがあったという(井上と監督の片嶋は、ともに若松孝二の門下。若松は本作に出演している)。

 あくまで、作品は日朝をこえて「アジア」を見ており、さらにアジアをも包摂する「アメリカ=帝国」を見ている。爆弾やミサイルが、ことごとく平和のバラに変えられていくラストからも明らかだが、これはテロ映画ではなく平和を希求する博愛映画なのだ。

 むろん、本作が反「帝国」として差し出すのは、たかだかパフィーの「アジアの純真」を、まるで「インターナショナル」のごとく戦場で歌うという、青臭く荒唐無稽な行為にすぎない。だが、この出口なしの閉塞した「帝国」から脱け出る有効な方策を、誰ひとり提示できない現在、あの二人が、出口なしの「青春」を駆け抜けようとするさまを笑うことも難しいのだ。

中島一夫