鑑定士と顔のない依頼人(ジュゼッペ・トルナトーレ)

 旧作『ニュー・シネマ・パラダイス』の記憶からか、はたまた本作のミステリー仕立ての巧みな構成が話題を呼んでか、客席は満席。途中で展開や結末は予想できるものの、それでも最後まで引きつけて見せてしまう手腕はさすがだ。

 カリスマ的なベテラン美術競売人のヴァージル・オールドマン(ジェフリー・ラッシュ)は、美女を描いた数多の名画を、自分の屋敷の隠し部屋に収集している。何百という絵画が部屋の壁を埋め尽くす姿は壮観だ。ヴァージルは、一人それを眺めては悦に入る。

 だが、一方で、彼は生身の女性とは関わることができず、それどころか触れることすらできないという女性恐怖症だ。手袋をつけたままでなければ食事もできないほどの潔癖症でもある。

 その神経質で完璧主義な性格からか、生活や時間を縛られる携帯電話は邪魔者でしかなく、オフィスの固定電話にかかってくる依頼や注文に対しても、少しでも気に障ることがあれば激高する男だ。また、だからこそ、鋭敏で正確な鑑定を行うこともできるのである。雑念や邪魔なものを排除して、常に機械のような鑑定力を研ぎ澄ませておくこと。彼の正確無比な鑑定力と、女性恐怖症や潔癖症、癇性といった病とは、相即不離、不可分の関係にある。

 その両者が分離することで、彼に悲劇が訪れる。その後の緻密な展開については省略するが、ここで触れておきたいのは、彼の悲劇は、一見そう見えるものの、生身の女性に触れてしまったことが原因ではないという点だ。

 それは、ヴァージルが、鑑定士であるとともに、彼が運営する競売所を取り仕切るオークショニアでもあるという点にある。彼のオークションの指揮さばきは、美術の鑑定に勝るとも劣らないほど、それこそ機械人形(作中、重要な意味をもつ)のごとく狂いなく正確で、かつ美しく手際が良い。

 優れた鑑定士にして、腕利きの競売人。この、まるで自らの楽譜を自らのタクトで、自由自在にオーケストラを動かすがごとく、オークションの場を完全にコントロールできるその強大な力こそが、彼を堕落への道へと誘い導くことになる。すなわち、彼は、画家崩れのビリー(ドナルド・サザーランド)を、サクラ役としてオークションに忍び込ませ、真価よりもはるかに安値で絵画を競り落とすのだ。隠し部屋の膨大なコレクションは、こうして獲得した二人の共謀の成果であり、ともにオークションを支配してきた結果なのだ。

 ビリーは、そもそもは画家として評価してもらいたかった。だが、ヴァージルによってあえなくその夢は打ち砕かれ、それどころか、今や彼のパートナーとして抱え込まれ、その立場に甘んじている。だがそれは、ビリーからすれば、純粋に芸術を追いかけていた自らの魂を、競売の共謀者という悪魔に売り渡してしまった行為でもあったろう。彼が、ずっとヴァージルへの復讐を狙っていたとしても無理はない。

 その復讐は致命傷でなくてはならない。自分の人生を台無しにした代償として。ヴァージルの最も苦手な部分=女性恐怖症に刃を突き立て、ヴァージルを最も輝いていた晴れ舞台=オークションから引きずりおろさねばならない。そして、最後は、ヴァージルの全てを奪い尽くさねばならない。

 こうしてヴァージルは、ビリー一味の壮大な騙しにあい、何が真実で何が偽物なのか、判別がつかなくなっていく。だが、それこそが鑑定士の仕事そのものだろう。したがって、彼が失ったのは、はじめての恋人や膨大なコレクションだけではなかった。自分自身が奪われ、否定されたのだ。そして、それこそが、ビリーの望んだことだった。

 真偽が判別できなくなったヴァージルの判断をかろうじて成立させるのが、これまた機械人形のような、サヴァン症候群らしき小人の女性というのは正直抵抗があるし、何とも後味が悪い。

 だがラストシーン。詐欺の女性の話にあったプラハのコーヒーショップで、来るはずもない恋人を一人待つヴァージルのみじめな姿をカメラは引きで捉えながら、だが、画面からは、それにそぐわないような和やかな音楽が流れてきたとき、観客ははっとする。

 このキョロキョロと落ち着かないヴァージル・オールドマンは、今、年甲斐もなく(オールドマン=初老男)、ヴァージン(ヴァージル)のような初々しい気持ちで、恋する女性がドアを開けてやってくるのを、今か今かと待っている。彼の機械人形のような人生は、今はじめて、生身の人間の生の時間を刻み始めたのだ。それに応じるように、古い時計で埋め尽くされた店内は、客のざわめきに覆われていく――。

 ただひたすら、恋する女性を待っている。これほど幸せな時間があるだろうか。また、これ以上のハッピーエンドはないだろう。

中島一夫