フィルス(ジョン・S・ベアード)

 『バッド・ルーテナント』を思い出させる、ヤク中のイカれた刑事。
 作品は、決して警察の腐敗というおなじみの刑事物語を奏でたいわけではない。捜査のシーンがほとんどないことからも、それは明らかだろう。あくまで作品は、主人公の刑事「ブルース・ロバートソン」(ジェームズ・マカヴォイ)の壊れっぷりを通して、90年代以降のスコットランドを映し出そうとしているのだ。

 FILTHには、①英国のスラングで「警察」②ごみ、汚物、卑猥な言葉、堕落③悪党、売春婦 という意味がある。ブルースが、これら全てを満たす存在であることは言うまでもない。彼は、酒やドラッグの中毒はもちろん、異常な性癖の数々、同僚の妻との不倫、金髪のカツラに黒いストッキングをはいて、売春婦よろしく夜な夜な街かどに立つ刑事なのだ。

 『トレイン・スポッティング』で有名な、原作のアーヴィング・ウェルシュは言う。


ブルースは90年代の申し子、と言ってもいいキャラクターだと思う。スコットランドはもともと共同体意識や仲間意識の強い、労働者階級が暮らす社会主義的な場所だった。それが80年代にサッチャリズムが入ってきて、個人主義を進めていった。スコットランドは政治的にはサッチャー首相を拒絶したが、文化的には個人主義を受け止めたところがあったと思う。その結果、奇妙なものが出来上がった。仲間意識があるけど、実は互いに足を引っ張り合って競争している社会だ。


 冒頭、妻がブルースの「昇進」を餌に彼をじらし、誘惑するシーンから始まる(これがブルースの妄想にすぎず、夫婦関係はとっくに破たんしていることは後に分かる)。この「じらし」で欲望を抱かせ続けることが、夫婦関係を長続きさせるコツなのだと言う。ブルースが、その渦中にある職場での昇進競争のゲームは、こうして家庭内にまで浸透しており、彼を欲望でがんじがらめにしているのだ。彼には息を抜く場所がない。


書きたかったのは「悪」というより「人生の迷子」だった。作家になる前に私は、市役所で働いていたことがある。そのころ大きな構造改革があり、縦型のヒエラルキーが破壊されて、横型のチームワークを重視するものへと組織が生まれ変わったんだ。当然ながら旧いタイプの人間の中には、その変化に対応できずに自分を見失ったしまう者が続出した。そうした形で、社会の変化の中で人生の迷子になる者を書こうとしたとき、市役所よりもさらに保守的で、より強い壁に守られている組織は何かと考えて、警察を思いついた。


 だが、「縦型のヒエラルキーが破壊され」ることは、同時に「横型のチームワーク」も破壊されることをも意味する。ブルースは、チームのメンバーにお互いの悪口を吹き込んでは相互不信に陥らせ、彼らの妻に手を出し家庭不和に至らせ、若い連中をドラッグに引きずり込み、他のメンバーを出しぬこうとする。

 そして、ブルース自身「僕のルールに例外なし」と言うように、彼もまたそうした出しぬき合い=競争から逃れられず、窒息しかけているのだ(そして、横のチームワーク=友愛の代補を求めて、フリーメイソンに入会するほかはない)。

 その状況を端的に示すのが、原作小説でも際立っている、サナダムシの場面だろう。監督は、このサナダムシはブルースの「内面の良心を表して」おり、「物語の表面で肉体の崩壊が描かれると同時にサナダムシを介して内面吐露が行われ」るのだと自らの解釈を語っている。

 だが、これは不正確だろう。むしろ原作では、サナダムシ=寄生虫がブルースの語りを侵食していき、そのありさまが、タイポグラフィ(特殊な文字組み)を駆使した文章で表現されている。サナダムシは、肉体だけでなく、内面をも侵食する存在なのだ。サナダムシは、ブルースの内面/外面=肉体という境界そのものを崩壊させるのである。

 したがって、映画では、ブルースの内面吐露の聞き手として精神科医が出て来るが、たとえ医者が奇妙な存在として描かれていたとしても(そしてサナダムシもその場面に一応出て来るとはいえ)、この設定ではサナダムシの「解毒」であろう。

 内面を崩壊させ、したがって精神分析を無効化してしまうような存在としてのサナダムシ。

 それは、「われわれはサナダムシであ〜る」という黒田寛一の「前衛党=サナダムシ」論を想起させてやまない。すが秀実「スパイ論序説」(『デルクイ』01)によれば、黒田いうところの「胃壁にあごんところについてる鈎(かぎ)で食らい付いてどんなことがあっても離さ」ず、「最後には本体を倒」すサナダムシとは、「今風に言えば正しくディコンストラクション戦略」であり、端的に「スパイ」である。

 そして、一九五〇年代に日本共産党内に誕生した(まさに「本体」に寄生した)、いわゆる(安東仁兵衛の)構造改革派が、サナダムシのごとく、共産党自民党という内/外を無化し、とうとう本体を倒し政権を握ったのが、かの民主党政権だった。現在の自民党政権が、スパイ防止法とも言える「秘密保護法」を、あわてて成立させねばならなかったのも、このおぞましくも「不気味なもの」(フロイト)たる、サナダムシ=スパイに対する強迫的な不安からではなかったか(だが、ウィキリークスのようなサナダムシが、これで駆逐され得るだろうか)。

 まさにブルースとは、「サッチャリズム構造改革」の渦中で、同僚とのスパイ競争にさらされ、身も心もサナダムシに食われてボロボロに衰弱していくほかなかった、この時代の「申し子」である。彼が言うように、確かにこのサナダムシ=スパイに覆われていく空間に「例外はない」。

中島一夫