グレート・ビューティー 追憶のローマ(パオロ・ソレンティーノ)

 前作『きっとここが帰る場所』もそうだったが、この人のフィルムは、今まで見たことがない感覚に満ちている。イタリア、ローマの落日を、こんな風に描くやり方があったかという驚き。

 狂騒的なパーティーの中に、初老でダンディなセレブ作家「ジェップ」(トニ・セルヴィッロ)が現れる、ド派手な幕開けだ。彼が人生の虚無をやり過ごす。その堕落と俗物ぶりが、ローマの退廃ぶりと重ねあわされていくのだが、その見せ方がうならせる。

 コロッセウムやサン・ピエトロ大聖堂ほか古代ローマを象徴する歴史的建造物や、美術史上重要な美術品の数々が、いくら並べても尽きないとばかりにちりばめられる。街が、ローマ・カトリックの宗教的な雰囲気に満ちていることは言うまでもない。

 いまだなお、「帝国」の重厚さをたたえるローマは、したがって世界中から観光客がやって来ては、あまりに美しさに卒倒しもするが(冒頭の日本人観光客!)、一方で、すでに住人は、そうした伝統的な「グレート・ビューティー」をとても支えきれないほど俗物化している、あるいは支えきれないので俗物化してやり過ごす。この作品の魅力の一つは、この聖と俗、歴史と現在の強烈なコントラストだろう。

 その対照が最も明確に表れているのが、次期法王候補の枢密卿と、アフリカのマリからやってきたシスター・マリア(ソニア・ゲスナー)が、ジェップ主催の会食で同席するシーンだ。前者は、美食家で運転手付きのリムジンに乗り、エクソシストだという噂もある徹底的に俗物の宗教家。後者は、104歳にして草の根っこを食べて極貧を生き、鳥たちをバルコニーに呼び寄せては、それぞれの洗礼名をすべて知っていると言って解き放つ、極めて崇高で敬虔な聖性をたたえる修道女なのだ。

 とりわけ、遠近法の消失点に設えられたキリスト像に向かって、一段また一段と地べたに這いずるように腕と体で階段をにじり登っていく姿は胸を打つ。彼女はジェップに言っていた。「なぜ私が根っこを食べているか分かりますか? 根っこは大事だからです」。

 この作品においては、旧第三世界からやって来た彼女だけが、古代ローマに見合った「根っこ」をいまだ保持し得ている人物なのだ。あとはすべて「無」だ。「無」は、フローベールにすら描けなかったという。ジェップに新作が書けないゆえんだ。

 彼には、「無」を照らす「灯台」だった、初恋のミューズ「エリーザ」がいた。明言されてはいなかったものの、どうやら彼女は2012年に30人の犠牲者を出した、豪華客船コスタ・コンコルディア号の座礁事故で亡くなったようだ。この事故は、船長の奇怪な行動も含めて、ヨーロッパの落日ぶりを印象付けるものとして報道された。それは、彼女がいたから作品が書けたともいえるジェップにとっては、まさに世界の「落日」だったのだ。

 ジェップが、女性党員作家と激論を交わすシーンがある。ジェップは、虚勢を張っている彼女に、「あんたは党幹部と寝たから何十冊と本を出せているだけ。皆も知っている」「皆、自分が「無」であることを知っていながら、こうして戯れている。あんたも所詮セレブじゃないか」というような言葉をぶつけ、その場から退散させる。

 確かに、グラムシ―トリアッティ路線の、イタリア共産党の末路を体現するような女性作家を糾弾したジェップは正しかったかもしれない。だが、ではいったいジェップの側に何があるのか。欺瞞的な虚勢すら張れずに、相手を論破するためだけの、虚勢すらない「無」の言葉だけだ。

 言葉と現実の関係に、キリンを消しさるマジック(ラスト近くだ)のごとき「トリック」を痛感するジェップは、芸術は「からくり」だと喝破した小林秀雄のダンディズムを匂わせる。これは、大衆社会化=通俗化の一途をたどるここローマにおいて、「故郷(=根っこ)を失った」ために文学を書けなくなった作家の「夜の果てへの旅」(エピグラフの言葉だ)なのだ。

中島一夫