グランド・ブダペスト・ホテル(ウェス・アンダーソン) その2

 この大地を切断する暴力に対抗するものは何か。

 それが、グランド・ブダペスト・ホテルの伝説のコンシェルジュ「グスタヴ・H」による全身全霊のホスピタリティ(Hはその頭文字か)の精神と、「クロスト・キーズ協会」なる、グスタヴはじめ世界の一流ホテルのコンシェルジュたちによる、超国家的な秘密結社である。

 それは孤独な者が孤独なまま結びつくネットワークとしてあり、その精神は、この作品の三つの時代に渡って、コンシェルジュからロビーボーイへ(1932年)、元ロビーボーイから作家へ(1968年)、国民的大作家から読者へ(現在)と、孤独の扉の鍵(キー)を続々と開けていくように継承されていく。

 だが、この孤独な者同士のネットワークを、単に国家的な「野蛮」に対する超国家的な「文化」、あるいはツヴァイクと親交のあったフロイトの言葉で言えば、自我の攻撃欲動に対する超自我的な文化
とのみ見るべきではない(確かに、ロマン派詩人をこよなく愛し、ことあるごとに暗唱するグスタヴを見ると、そう言いたくもなるが)。

 それは、伝説のコンシェルジュ、グスタヴの物語が語られる「1932年」が、いわゆる人民戦線の起源といってもよい、アムステルダムの国際反戦大会の年であることからも明らかだろう。

 ジッドやマルローらとともにその呼びかけ人の一人であったロマン・ロランは、ツヴァイクと密接な交流があった。ツヴァイク自身は、後に国際的な反ファシズム運動に発展していくこの運動に直接関わることはなかったが、今作のグスタヴは、その精神を継承するロビーボーイ「ゼロ」によって「ファシズムと共存できない人だ」と言われる人間なのだ。ウェス・アンダーソンは、グスタヴという人物に、ツヴァイク以上のものを盛り込もうとしていたといえる。

 ここで、グスタヴを演じるレイフ・ファインズが、シェイクスピア悲劇『コリオレイナス』を現代に置き換えた『英雄の証明』(2011)で監督デビューを果たしていることが、にわかに重要となる。ウェス・アンダーソンは、クロスト・キーズ協会に、1932年に始まる人民戦線を重ねあわせようとしていたのではないか。おそらく、そのとき呼び出されたのが、『英雄の証明』のコリオレイナス=俳優レイフ・ファインズだったのだ。

 スラヴォイ・ジジェクは、『英雄の証明』のレイフ・ファインズは、『コリオレイナス』が『ハムレット』よりも優れた作品であることを、ブレヒトとともに示したという。そのとき、原作を「異化」させ、「狂信的な反民主主義者ではなく、急進左派という形象を担う人物としてコリオレイナスを際立たせたのである」と(『2011 危うく夢見た一年』)。そう、『コリオレイナス』のレイフ・ファインズは、ローマから転向し、左派ゲリラの戦士に加わる「革命家=殺人機械」(チェ・ゲバラ)なのだ。

 『グランド・ブダペスト・ホテル』でレイフ・ファインズ演じるグスタヴの裏側には、この革命家コリオレイナスの顔が張り付いている。そのことによって、「ツヴァイク=リベラル派」+「ブレヒト共産主義者」という人民戦線の可能性が、レイフ・ファインズという俳優を通して透けて見えてくるのだ。

 ラストで、このグランド・ブダペスト・ホテルの所有者となった「ムスタファ=ゼロ」は、このホテルは、死んだグスタヴの「世界」との最後の絆かと聞かれ、こう答える。「いや、自分がここに来たときには、すでに「彼の世界」は失われていた。彼は、それを「幻影」として立派に維持していたのだ」と。

 グスタヴの世界は、まさに「昨日の世界」である。だが、ツヴァイクが、決してそれをノスタルジーとして語らなかったように(「このようなひとつひとつの事が書きとめられるということこそ、そういうことを不可能と考えるにちがいないような未来の時代にとって、重要であると私には思われるのである」)、ウェス・アンダーソンもグスタヴの世界を、懐古的に語ろうとしたのではない。

 そうではなく、「幻影=映画」として語り継がれることで、それは「維持」することができるのだということ。それが、1932年、1968年、現在と、本作で入れ子型に「語り」が継承されていくゆえんである。

 むろん、その語りは、映画館の暗闇に潜む「秘密結社」の孤独な同士にも向けられている。そして、ホテルの扉を開いたまま、中へといざなっているのだ。

中島一夫