名前のない男(ワン・ビン)

 タイトルといい、テーマといい、私にとってど真ん中過ぎる作品で、大いに心を揺さぶられた。いよいよ今週末関西公開の『無言歌』への序章にもなっていよう。

 今となっては誰も暮らしていない、人影もまったくない、廃墟と化した荒野の洞穴に住みついた男。とぼとぼと歩き回り、草や葉、芽、実など、食べ物になりそうなものを、探し出してはかき集める。そして、洞穴に帰り、壊れかけの鍋釜で火を通してかっ喰らうのだ。暗がりのなか、中味はよく分からない。よく分からないものを、ハエが飛び交うなか黙々と食べる。

 ただひたすら、その様子をカメラが追う96分。野生状態に放りだされた人間の、「食べていく」という営みだけに集約されたミニマムな生の姿。もはや、「剥き出しの生」や「ホモ・サケル」、「汚辱に塗れた人々の生」といった思想の言葉を、いくつ並べても追いつけないような裸形の人間が、淡々と映し出されていく。ペドロ・コスタの「ヴァンダ」には、まだ名前も「部屋」もあった。だが、この男には何もない。

 冒頭、周囲の土や泥の色に同化してしまったような薄汚れた男の顔が、いきなり洞穴から顔を出し、度肝を抜かれる。ワン・ビンは、あるとき疲れきって気分を換えようと車を遠くへ走らせていたとき、この洞穴の男に偶然出くわした。丈の高い草原の中からにゅっと顔を出した男を、ワン・ビンは「亡霊だ」と思ったという。

 確かに、国民国家市民社会の台帳に、名前があるかどうかもよく分からないこの男は、まさに文字通り名前=身分証明のない男であり、誰でもない幽霊的存在だ。

 しかも、この男は、時折うなるようにつぶやくぐらいで、まったく言葉をしゃべらない(必然的に映画はサイレント化する。全編一言のセリフもなし。聞こえてくるのは風や雨の音ばかり)。身寄りも人間関係も全く持たない孤独な存在だ。洞穴という「収容所」に生きる男は、あのコミュニケーションを断ち切られていた石原吉郎のように失語に陥っている。そうした意味においても、収容所を舞台とした新作『無言歌』につながるはずだ。ワン・ビンの関心の所在が、痛いほど伝わってくる。

 男が唯一感情を露わにしたのは、何と石につまづいたときだった。石に当たり散らす彼を見て、客席に笑いが起きる。だが、このようなちょっとしたことにいらだつ感情が、こんなにぎりぎりの生にまでしぶとく残存するものなのかと軽い衝撃を受けた。

 この男の姿に悲惨さを見る者は幸いである。「悲惨」だと見ることができるぶん、上げ底にいるからだ。人は匿名的な存在には進んでなりたがるが、この男のごとき無名性にはほとんど耐え得ない。匿名になりたがる者ほど、本当は固有名として承認されたい願望をもっている。

 匿名は固有名と決して矛盾しない。両者とも、本当は、交換不可能な単独的な存在として卓越せんとするという欲望を隠し持っている。本当に誰も見ていないところで、いったい誰が匿名で「つぶやく」気になるだろうか。

 男を見ていると、3・11を経てなお、われわれにはまだ堕ち方が足りず、どうしようもなく上げ底でダブついた地面の上にいることかがわかる。この男は、間違っても他人や社会に「生きさせろ」とは言わないだろう。あるいは、自らの存在や生、ことさらにアピールし、あわよくば誰かに見てもらおう、認めてもらおうとは思わないだろう。ならば、そのように求めあってしまうわれわれとは、逆に、いったい何者なのか。

 誰でもない誰かとして生き、食べ、そして死んでいく。この名前のない男の生は自由だ。そして、自由とはこのようなものである。いったい、人は、本当に自由など求めているのだろうかと思った。

 男が道端や草原に落ちている馬糞のようなものを、素手で無造作に拾い上げては破れかけた袋に入れていくのを見るとき、一瞬、まさか男は馬糞まで、と不覚にも思ってしまった。もちろん、だがそれは肥料のためで、やがて男は、この何もなかった荒野を耕しては、青々とした菜園を築きあげていくだろう。

 その姿を目にしたとき、男が着々と季節を越える備えをしてきたことに得も言われぬ感動を覚えるとともに、ワン・ビンが、男が寝ている姿を一切カメラに収めていなかったことに、はっと気づかされる。この名前のない自由な男は、誰が見ていようがいまいが関係なく勤勉だった。一面雪交じりの枯野だったこの場所も、どうやら冬を越したようだ。

 今日もまた、とぼとぼと歩いて行くその後ろ姿。これほどまでに、何も語らない背中というものを、私はいまだかつて見たことがない。

中島一夫