無言歌(ワン・ビン)

 収容所において栄養失調で次々と淘汰される生。そのたびに、死体は布団ごと丸太のように縛られ、次の朝収容所ごとに回収される。行き先は、荒涼とした砂漠だ。そこでは、土で覆われた膨大な数の「丸太」が、ボコボコと小山のように盛り上がっている。中には、身にまとっていた衣服や尻の肉まで剥ぎ取られた死体もある。

 この作品に映し出されるのは、もはや人間の死ではない。石原吉郎が描いたような、「生きるのをやめた」人間たちの淘汰の姿だ。

 ある朝、私の傍で食事をしていた男が、ふいに食器を手放して居眠りをはじめた。食事は、強制収容所においては、苦痛に近いまでの幸福感にあふれた時間である。いかなる力も、そのときの囚人の手から食器をひきはなすことはできない。したがって、食事をはじめた男が、食器を手放して眠り出すということは、私には到底考えられないことであったので、驚いてゆさぶってみると彼はすでに死んでいた。そのときの手ごたえのなさは、すでに死に対する人間的な反応をうしなっているはずの私にとって、思いがけない衝撃であった。すでに中身が流れ去って、皮だけになった林檎をつかんだような触感は、その後ながく私の記憶にのこった(「確認されない死のなかで」)。

 中国で1959年に起きたいわゆる「反右派闘争」。ワン・ビンは、すでにこのテーマで『鳳鳴―中国の記憶』(2007年)を撮っているが、ドキュメンタリーでなく自身初の劇映画になっている(オムニバス作品としては『世界の現状』(2007年)がある)。原作は、楊顯惠(ヤン・シエンホイ)の『告別夾邊溝』。

 だが、作品全体の映画化は、資金面や自由度の問題で不可能だった。したがって、反革命右派分子の再教育収容所に照準を絞って描くことで、小さな断片から反右派闘争全体を分かってもらおうという手法で撮ったと、ワン・ビンは語っている。

 溶鉱炉を建設したものの、そこで溶かす鉄鉱石がないので、クワやスキからやかん、バケツに至るまで、金属類をすべて炉に投げ込んだという、笑い話にもならない悪名高い「大躍進政策」の大失敗によって、当時中国全土は大飢饉に襲われていた。ネズミ、おが屑、泥土まで食いつくし、ついには他人の吐瀉物の中にまで食べられるものを探しては口に入れる囚人の姿はすさまじい。

 だが、(それと比す論者も見受けられるものの)スターリンの収容所を告発したソルジェニーツィンとは、根本的にスタンスは異なっている。むしろ、徹底的に「告発せず」を貫くことで、収容所の生を描写し思考し得た石原吉郎に近いというべきだろう。もとより、ワン・ビン自身が収容所経験者でない以上、反革命右派のレッテルを張られ犠牲となった人々を代弁して「告発」することなど不可能だ。

 また、たとえスタンスが異なるとしても、この『無言歌』や『鳳鳴』という作品が、ソ連スターリン体制への信頼を決定的に失墜させた、ソルジェニーツィンの文学のような意味や威力を持つのではないかと考えるのも違うだろう。

 50年代中国の収容所の「技術」が、その後の文化大革命における紅衛兵による告発、破壊、粛清、再教育といった暴力の嵐へと地続きにつながっているという視点は、例えばすでにフーコーなども指摘していた(「ソ連およびその他の地域における罪と罰」1976年)。そもそも、文化大革命紅衛兵に対する批判は、今や温家宝首相や習近平国家副主席ら、政権中枢によってすらなされているのだ。

 確かに、この作品が中国国内で上映できないことや、中国資本が一切入っていないという事実は重い。だが、収容所文学や映画が、それだけで反共の素材としてインパクトをもつ時代はとうに終わっているだろう。もしそこで思考停止してしまえば、あれだけスターリン収容所で被害にあった石原が、なぜ告発を拒み、コミュニズムへの希望をなお捨て去ることがなかったのかはついに見えない。

 スラヴォイ・ジジェクは『大義を忘れるな』で過激に言い放つ。ブレヒトの「新しい銀行の設立に比べれば、銀行強盗なんて屁でもない」を敷衍して、「文化大革命に取り憑かれた紅衛兵らの暴力なんて、資本主義的再生産が必要とするあらゆる生の形態の永続的解体を目指す、真の意味での文化大革命に比べれば屁でもない」と。

 確かに、文化大革命の失敗ではなく、逆にその不徹底こそが、現在の中国に爆発的な資本主義的成長をもたらしたのではないのか。今や中国は、曖昧に資本主義と妥協しながら、なお共産党一党独裁が機能しているからこそ、かろうじて市場の暴走を上からコントロールし得ている。だからこそ、もはや資本の暴走にお手上げ状態の先進資本主義諸国の羨望(嫉妬?反発?)の的にすらなっているのだ。

 ジジェクがいうように、マルクス主義の歴史について、誰が裏切り、どこから堕落し間違った方向に向かったかと考えてしまうのは「狡猾な罠」である。マルクスは良いがレーニンは悪いとか、レーニンは良いがスターリン毛沢東は悪いなどと考えるべきではない。必要なのは、過去をすべて認め「その責任を完全に受け入れること」だと。キリストがパウロの「裏切り」を必要としたように、マルクス主義革命を実行するためには、レーニンの「裏切り」を必要としたのである。

 『無言歌』には、見なければならないものが映しだされている。だが、その理由がなぜなのかを考えていくことは、それほど簡単なことではない。

中島一夫