独裁者と小さな孫(モフセン・マフマルバフ)

 その声ひとつで、街中の灯りを点灯・消滅させる権力を手中にしていた老独裁者が、クーデターによって大統領の座を追われ、愛する孫の手を引いて、命からがら国内を逃亡する。ある時は羊飼いに、またある時は旅芸人に変装し、ついにはかつて自らが裁いた政治犯の集団に紛れ込み身を隠しながら。

 2011年の「アラブの春」以降、チュニジアのベンアリー、エジプトのムバラクリビアカダフィー、イエメンのサーレハと、次々にアラブの長期政権を担ってきた独裁者たちが姿を消していった。ホメイニによるイラン・イスラーム革命の精神を体現するイラン・イスラーム共和国の監督であるマフマルバフは、だが2009年の選挙――最高指導者ハメネイが、精神的権威を自ら放棄し、アフマディネジャド陣営に公然と加担したことで、「法学者の統治」を事実上終焉させた――を「クーデター」と称し、ムサヴィ支持に回った。現在は、ヨーロッパで亡命生活を続けている。

 この監督にすれば、「アラブの春」以降の展開は、かつて自国で起こったことの反復に見えただろう。実際、独裁者を追放した民主化の歩みが、民主化を掲げる以上選挙という普遍性を通さざるを得ず、そのためその成果を結集力に富むイスラーム原理主義勢力に簒奪されていくという流れは、かつてイラン・イスラーム革命で実権を握ったホメイニらが、世俗派のバニーサドル大統領を排除していった過程と重なる。だからこそ、「アラブの春」以後を思考することから目を背けることは出来ないとばかりに、本作の制作に向かったのではなかったか。

 だが同時に、架空の国を舞台に独裁とその崩壊を描く本作は、この監督ならではの形式的なポストモダンぶりを見せる。暴力ではなく交換を、という主張を形式化した、初期の『パンと植木鉢』のラストシーン以降、この監督のラストシーンはいつも印象的で、そこには作品全体のテーマがこめられてきた。本作も、まさにラストシーンがアルファにしてオメガであると言ってよい(以下、ネタバレを含む)。

 岸辺に追い込まれた老独裁者は、ついに民衆に捕えられ張りつけにされる。だが、民衆の一人が、「憎しみによって彼を処刑しても、同じ事を繰り返すだけだ」と叫ぶ。それでも圧政に苦しめられてきた人々は聞く耳を持たない。すると男は、「では自分も殺れ」と己の首を指しだすのだ。自分たちを苦しめた独裁者を殺さないとならば、「奴をどうすればいいのだ?」と民衆。「踊らせろ」と男。

 ここには、大統領とは共和国の矛盾を体現する存在であり、その矛盾を糊塗しようとすることで「独裁」へと帰結するという、極めて形式=構造的な認識がある。カール・シュミットが「例外状態」として思考した問題であり、また蓮實重彦がこだわった、フランス第二共和国から第二帝政期への移行の問題である。

 独裁者は最初から独裁者だったわけではない。そうではなく、共和国の理想が、民衆を表象=代行する大統領という存在を不可避的に招いてしまうという、共和制の形式上の矛盾=穴が、彼をそのような者たらしめるのだ。独裁者が、民衆自身によって熱狂的に選ばれた大統領からこそ生まれるということ。共和制=大統領制は、独裁を論理的に内包しているのだ。

 大統領=独裁者と民衆の男の首が二つ並んだ図は、大統領という存在が、民衆から産みだされることを示している。ここまで、大統領がクーデターの後、徐々に民衆に紛れていく過程を丹念に描き、彼を一人の民衆に戻していった必然性もここにあろう。
 
 だから、独裁者が、あんなに孫に優しいわけはないという見方は当たらない。彼の矛盾は、その性格ではなく、あくまで形式=構造上のものなのだ。むしろ、孫の存在こそそのことを示している。やがて大統領を継承=反復するはずだった彼が、血統という記号を持っている者だということ。これはまさに、ナポレオンの甥であることが彼を大統領へと押し上げた、かのルイ・ナポレオンを想起させよう(現在の増加し続ける二世議員の問題は、こうした第二帝政期の事態の矮小化された反復にすぎない)。

 ラストで、孫が「踊る=踊らされる」姿は、大統領=独裁者の「砂上の楼閣」が、波にさらわれて消えてなくなった後の、まさに蓮實の言う「仮死の祭典」そのものではないか。もはや権力を喪失し、何者でもない者として踊る孫は、生でも死でもない匿名の「仮死」としての存在だからだ。マフマルバフが思い描く、「アラブの春」以降のポスト独裁のビジョンも、こうした「踊り」と「祭典」であるような気がしてならない。

 そういえば、冒頭で孫は、大統領の真似=反復をしようとして、街の灯りをつけたり消したりしようとしてもできなかったではないか。すでに「仮死の祭典」は、始まっていたのかもしれない。

中島一夫