最寄駅からケータイで誘導されても、容易にたどり着けない迷宮のごときマンションの一室。そこでは、夜な夜な乱交パーティーが繰り広げられている。
今宵も男女4人ずつ計8人が集ったが、彼らはカップルや夫婦の集まりではない。つまり、これはスワップではない。午前0時から5時で、男2万円女1千円。れっきとした新種の風俗なのだ。
大根仁が監督した昨年の『恋の渦』の脚本同様、三浦は、人間を閉鎖的な場所に押し込めたうえで、流動性、可変性、匿名性にさらしていく。
彼らは、服を着て街を歩いているときは、それぞれニート、女子大生、フリーター、保母とさまざまだが、ここでは互いの体をむさぼりあう一個の肉にすぎない。彼らは、この店の店長が言うように、例えば合コンなど、そこからセックスに至る「面倒くさい」過程をスキップするために金を払っているわけだ。
だからこそ、ペアになるまでは、互いをぎこちなく探り合っていた彼らも、いざ事に及ぶと、壁もカーテンもなく、無造作にただ四つ並べられているだけのベッド上で、野獣のように交わる。
それぞれのペアが一回戦を終えた頃になると、まさにお互いの壁が取り払われ、風通しの良い開放的な共同性が出来上がる。それは、フーリエの性的なユートピアを思わせる。
だが、本作の見どころはこの先だ。乱交であるからには、最初のペアが、次々と相手を変えていかねばならないが、そう都合よくいかないのが、人間の悲しい性である。一たび肌を重ねてしまったために生じる情や所有欲、個性として言いようのない匂いや癖、そういったものがノイズとなり、スムーズな乱交を妨げてしまう。
途中参加のカップルが合流すると、事態ははっきりする。彼氏は、いざ彼女が他の男と交わると、途端に「お前、何マジにやってんの? 高度なギャグだったのが分かんねえの?」とキレ始めるのだ。
「スワッピングは究極の愛の形だ」。すなわち、彼氏がそう言って乱交を持ちかけたのは、あくまで自分に対する彼女の愛を確かめたかったにすぎないからで、最終的には笑い飛ばすなり突っ込むなりしてくれないと困る「ギャグ=ネタ」なのだ。それは、真に受けて(=ベタ)しまったら台無しになってしまうのである。そのネタ/ベタの危うさがコミュニケーションに賭けられているからこそ、それは「高度なギャグ」なのだ。
同様に、新井浩文が池松壮亮にキレるのも、池松と門脇麦がお互いに好きになりかけるのも、「高度なギャグ」でなければならない。ここは、あくまで金銭が介在する風俗の場なのだから。
逆に言えば、そう自らに言い聞かせなければ、人間はかりそめにも流動性や匿名性にさらされることに、とても耐えられないのだ。もし、真に流動性、匿名性が支配する空間に放り出されたら、それこそ本当に裸形の人間=ホモ・サケルにならざるを得ないだろう。本作が浮かび上がらせるのは、そのことだ。
いくら匿名でSNSをやっていても、人間は哀しいまでに他者からの承認=フォロワーを求めるし、炎上すれば途端に演じていたキャラは崩壊する。人間は、真に裸になることなど出来ないし、本当は求めてもいないのである。擬似的に「裸」になれる空間を求めているだけだ。
あの場にいたのは、「適度に」裸の人間たちにすぎない。だから、それがネタだったのかベタだったのか、本当の自分がそこにいたのかいなかったのか、迷宮から出て来た彼らにもよく分からない。「適度に」どちらでもあったとしか言いようがないのだ。
ラストの二人が、迷宮の外で、なお迷うほかはなかったように。
(中島一夫)