アレクサンダー大王(テオ・アンゲロプロス)

 もうこの一本しか日本にはないそうだ。1980年公開のフィルムは、すっかり赤みがかっていた。

 この一本のフィルムが、「追悼特集」で、全国の劇場を「旅芸人」のように転々としている。そう思うと、何ともアンゲロプロスらしい。そして、208分という「永遠と一日」のような時間。

 1899年12月31日深夜、義賊の首領アレクサンダー大王(歴史上の、というより、「解放者」として知られる伝説上のアレクサンドロス)は、囚われていた自らの一団を率いて脱獄、明くる日の1900年1月1日に、イギリス貴族らを誘拐する。

 向かった先の生地である北ギリシャの村は、「先生」と呼ばれる指導者によって、すでに共産村と化していた。途中で遭遇したイタリアのアナーキストらと入村したアレクサンダーは、国王や政府に対し、人質の解放と引き換えに、自らの恩赦と、イギリス人地主によって搾取された土地を農民の手に戻すことを要求する。

 だが、なかなか取引は成立せず、時間が経つにつれ、アレクサンダーのカリスマ性も徐々に薄れていき、いつしか彼は解放者から独裁者へと変貌していく――。

 久し振りに見た『アレクサンダー大王』は、何と当たり前のようにイデオロギーの映画だったことか。イデオロギーの終焉が叫ばれて久しい現在、そのあまりに堂々としたイデオロギー映画ぶりに、何だか励まされた。

 言うまでもなく、イデオロギーが終焉したならば、夢もなくなったのだ。そして、夢を見られなくなったということは、すなわち芸術が終わったということである。にもかかわらず、人は、都合よく、死んだのはイデオロギーだけで、夢や芸術はいまだ健在だと思い込んでいる。

 アンゲロプロスはきっぱりと言う。「今日、語られうるのは、いわばちゃちな夢であり、ちゃちな芸術でしかない。すべては、ちゃちなものとなってしまった」(蓮実重彦インタビュー集『光をめぐって』)。

 だからこそ、この『アレクサンダー大王』は、20世紀の「夢」を、「芸術」として真正面から語ろうとした。

出発点にあったものは、今世紀に特有の夢、つまり、社会主義的な夢の実態を批判的に考察することです。社会主義の夢というのは、否定しえない現実として人びとの想像力を支配していた。その事実は、社会主義に反対の人でも否定することはできないものです。それは、二十世紀の夢なのです。それに到達するにはいくつかの異なる出発点がありました。だが、あらゆる理論的な探求は、ある一点で、現行の社会主義が失敗であったという事実につきあたる。なぜか。
 私の映画は、そのなぜかという理由を示そうとするものではない。最後に、アレクサンドロスと呼ばれる少年が、さまざまな社会主義的な経験と試練をへた上で、夕方、都会に向けて歩んでゆく。それはもはや大王ではないアレクサンダーです。その夜は長いのか、短いのか。朝が訪れるのか否か、それはどんな色調なのかわからない。いずれにせよ、もはや夢は夢ではありえない。(『光をめぐって』)

 有名なワンシーン・ワンショットや360°のパンの多用、あるいは古代ギリシャ悲劇の劇場のような円形広場のシーンは、観客を含む全宇宙を俯瞰する視線によって、20世紀を余すところなく総体として捉えようとする野心の表れである。

 かつて中上健次は、ギリシャ悲劇の円形舞台は、もともと神の近くにいた王が、そこから転がり落ち、そうと知らずに不可避的に罪を犯してしまうそのありさまを、観客が空の上の神の位置から見渡せるように作られていたのではないかと指摘した(『中上健次と熊野』)。まさに、この作品では、観客が、アレクサンダー大王が罪を犯していく一部始終を俯瞰するのだ。

 観客が神の位置にあるといっても、むろんそこには「お客様は神様」という消費者主義的な意味はみじんもない。むしろ逆なのだ。そして、そのことは、アンゲロプロスが、なぜモンタージュを嫌い、ワンシーン・ワンショットを好むかということと明確につながっている。

モンタージュによる映画を見ていて私が苛立つのは、それは二つの画面の相互介入といった衝撃の上に成立しているのですが、そのとき、その画面を指さして、ほら、このイメージを良く見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。(中略)ワンシーン・ワンショットの映画では、見る人間の知性と感性とにより多くの自由を残そうとしています。(中略)それは、つまり映画を見に来た人の知性を信頼し、その受動性から解放させようとすることにほかなりません。


 アンゲロプロスの作品においては、観客も積極的にスペクタクルに参加し、思考と想像力を駆使し、各々が各々の映画を作り上げていかねばならない。おそらく、そのことによって身をもって示そうとしているのだ――二十世紀を俯瞰してみたときに、われわれは、もはや「夢」が受動的に与えられるものではなく、自ら見ようと積極的に紡ぎ出していかなければならないものとなったのだ――ということを。

 ラストで、アレクサンダー大王の末路と20世紀社会主義の一部始終を見届けた少年アレクサンダーは、丘の上から見下ろしていた都会へと分け入っていく。アンゲロプロスは、彼に21世紀の夢を託した。

 アンゲロプロスの予言したように、果たして、すべてを見た少年は、本当に「大王=カリスマ」にならないだろうか。おそらく、黒沢清が、1899年からちょうど一世紀を経た1999年に撮った『カリスマ』は、この『アレクサンダー大王』への真摯なレスポンスだった。ラストで、「カリスマ」と呼ばれる木をめぐる闘争の果てに、真っ赤に燃える街を見下ろす役所広司の姿は、少年アレクサンダーの反復でなくて何であろう。

 もちろん、そこに答えなどない。ただ、アンゲロプロスの夢を見てしまった者だけが、夢を見続けることができる。そして、だからこそ、また後から来る者にも夢を見せたいと願う。そうした夢と芸術のか細い連なりだけが、そこにははっきりと見える。

中島一夫