怒り(李相日)

 監督・李相日、原作・吉田修一のコンビだった『悪人』には、真の悪人が不在だったように、本作には真の怒りが不在である。後で述べるが、むしろそのことがテーマとなるのだ。

 世間をにぎわせた殺人事件、沖縄問題、LGBT派遣社員発達障害、……。二重苦より三重苦、三重苦より四重苦のこれでもかという「疎外」の羅列と累積によって、煽情的に物語を駆動させ、それら多様な疎外をいっしょくたに「怒り」として一般化してしまう本作の手法には、基本的に賛同できない。だが一方で、いくつもの点で触発されたことも事実だ。

 派遣会社から指定された現場に赴くも、猛暑のなか汗だくになりながら探し歩いても一向に見つからない。男はたまらず会社に電話を入れるが、「それ先週の現場だよ」と一笑されてしまう。うなだれて住宅街の玄関先に座りこんでいると、見かねたのか、住人の女性が「もしよかったら」と麦茶を差しだしてくれた。だが、男はこの後ふらふらと家に上がり込み、夫婦を惨殺する。

 見ていて、詩人石原吉郎が書きとめた、同じくシベリア収容所の「囚人」だった鹿野武一を思いだした。あるとき鹿野は、他の日本人「受刑者」とともに、公園の清掃作業に駆りだされる。

たまたま通りあわせたハバロフスク市長の令嬢がこれを見てひどく心を打たれ、すぐさま自宅から食物を取り寄せて、一人一人に自分で手渡したというのである。鹿野もその一人であった。そのとき鹿野にとって、このような環境で、人間のすこやかなあたたかさに出会うことくらいおそろしいことはなかったにちがいない。鹿野にとっては、ほとんど致命的な衝撃であったといえる。そのときから鹿野は、ほとんど生きる意志を喪失した。(石原吉郎ペシミストの勇気について」)

 以降、鹿野は絶食してしまうのだが、傍で見ていた石原は「人間のやさしさが、これほど容易に人を死へ追いつめることもできるという事実は、私にとっても衝撃であった」と述べている。

 衣食足りた者たちの「すこやかなあたたかさ」が、時に人を死に追いつめ得ること。『怒り』の「山神一也」を襲ったのも、その種の人のやさしさではなかったか。そして、この国の果てまで逃亡していく過程で、彼の「怒り」は、出会った人間の――あるいは顔を変えた全国指名手配の写真を通しても――何かを刺激し転移していくのだ。

 だが、冒頭で述べたように、山神に「怒り」はあったのか。本当に怒りに満ちた人間は、決して血文字で「怒」とは書き残さないだろう。山神にあったのは、そして人々に転移していった感情は、もっと別のものではなかったか。例えばそれは、山神がチラシや壁に書き殴っていた、次のような文言から浮かび上がるメンタリティだ。

「電車遅延で 駅員をドーカツ 顔真っ赤 ウケる 人身事故なんだから仕方ねーだろ おっさん」
「ファミレスで店員に苦情 ブツブツ ブツブツ かっこ悪 馬鹿夫婦 家で食え家で」
「米兵にやられてる女を見た 知ってる女だった ウケる どっかのおっさんがポリスって叫んで終了 逃げずに最後までやれよ米兵 女気絶 ウケる」

 今日、この種の書きこみをネット上に見つけることは、さして難しくない。そういう意味で、こうしたメンタリティは蔓延していよう。原作の吉田修一は、山神を追う刑事にこう言わせている。

山神という男は何かに怒ったところで、結局その状況は良くならないと思っているんじゃないでししょうか。だから怒っている人たちが愚かに見えるというか、こうはなりたくないというか……、すべてを諦めてしまった人間のような……

 ここに本作のテーマがあろう。本作は、「怒り」そのものではなく、「怒」っても何も変わらないという「諦め」の蔓延がテーマなのだ。登場人物たちに共有されているのは、状況を変えることに対する「諦め」なのである。

「……だって、私が何を言ってもしょうがないですよ。私がいくら言ったところで、母を変えることはできないし、かといって母と離れて一人で暮らすなんてまだ無理だし。だから私、もう諦めてるっていうか、……うん、もう諦めちゃってるから」

「戦っても仕方ねえだろ。俺が必死に愛子のこと守ろうとすればするほど、笑われるんだよ。(中略)諦めた方が、もう波風立たねえんじゃないかって」

「…何も変えられない。……もういいよ。もういいよ」

 登場人物たちは、何かを変えるために戦うことを諦めている人物たちである。だからこそ、他人を、人間を信じることも諦めているのだ。そう読んで初めて、それでもまだ諦めきれなかった人間がおり、その人物がラストで事を起こした後、「信じていたから許せなかった」と言葉を残すのも腑に落ちるだろう。

 沖縄の果ての海も空も、この作品においては、決して人々を解放してはくれない。それどころか、まるでそこは、人間を信じ、何かを変えられるという希望の尽きる果て、広大な海と空とに閉ざされた「収容所」のようである。

中島一夫