熱波(ミゲル・ゴメス)

 モノクロで懐かしい映像なのに、こんなのは見たことないという新しさ。
 現代のリスボンを描く第一部「楽園の喪失」と、それとすべてが対照的な、植民地時代の禁断の恋を描く第二部「楽園」の二部構成。

 冒頭、妻の死の思い出から、限りなく遠く離れようとアフリカ探検にやって来た男が、ワニに食べられるべく川に入っていく。部族による供犠の踊りが繰り広げられる。

 カメラが引くと、それはリスボンに住む女性「ピラール」の見ていた映画のワンシーンだった。衝撃の映像に、しばらく口がふさがらないピラール。

 この冒頭のシークエンスに、本作のテーマが凝縮されている。ポルトガルでは、現在もなお「タブー」(本作の原題は「Tabu」)とされている、アフリカ旧植民地問題。だが、1961年から74年まで独立戦争が続いていたのだから、タブーとして封印されてはいても、というかそうせざるを得ないほど、あまりに近く生々しい過去だ。実際、第二部には、独立戦争中、単に愛情のもつれから射殺された男が、帝国主義者のスパイだったことにされ報道されたという「物語=歴史」が出てくる。

 ヨーロッパで最後まで植民地を手放さなかったポルトガルの「原罪」が、まさに今「映像=記憶」としてリスボンの一市民女性を襲っているのだ。この、ピラールが見てしまった旧植民地のワニの映像は、この後も反復強迫的に、何度も残像のように顔を見せることになる。

 ピラールが映像に衝撃を受けたのは、彼女が敬虔なカトリックで、性善説を信じ、善意で世界を変えられると思っている人物だからでもあろう。そんな彼女の隣人が「アウロラ」という老女だ。アウロラは、アフリカ人のメイド「サンタ」とともに暮らしているが、抗鬱剤の後遺症に悩まされ、カジノに入り浸っては、娘が会ってくれないといつも嘆いている孤独な老女である。そして、サンタにヴードゥーの呪いをかけられていると思い込み、日々隣人のピラールに救いを求めてくるのだ。

 どうやら、アフロラは何やら罪悪感に苛まれているのだが、その正体は分からない。だが、ピラールが見た映像の衝撃と、アウロラがアフリカ人のメイドに強迫観念を抱いていることが、実はともに現代のポルトガルの表層においては隠蔽されている原罪(タブー)に関わっていることが、第二部「楽園」において一挙に明らかになるのだ。

 第一部の、ある意味退屈な日常の描写を、第二部の豊穣で重層的な物語によって回収していく手並みは見事である。第一部はピラールの視点で語られるが、第二部は焦点移動し、アウロラが死の直前に、「最後に会いたかった男」である「ベントゥーラ」の語りによって、アウロラの植民地での半生が語られていく。

 さらに、第二部では、映像も16ミリから35ミリに変わり、しかも「語り」であるにもかかわらず、無声映画になっているのだ。このモノクロの無声映像が、今やタブーとして葬られ「喪失」されたかつての「楽園」の豊穣さを、逆に否応なく浮かび上がらせる。この、考えに考え抜かれた構成と、選びに選び抜かれた手法は、改めて映画の豊かさを思い出させよう。

 それにしても、ペドロ・コスタのスラムの描写から、ミゲル・ゴメスの豊穣な物語(次回作は、『千夜一夜物語』だという)への移行という、まさにポルトガル映画の焦点移動は、失業者が膨れ上がり、中産階級が消滅しつつあるというポルトガルの現在を、いったいどのように映し出しているのか。

中島一夫