辺境最深部に向って退却せよ!(太田竜)

 先日のトークセッションの付記をもうひとつ。
 いまだに「日本は唯一の被爆国」という言説が、恥ずかしげもなくまかり通っているということが話題にあがったとき、本書の太田竜が、それこそいまだに有効なのではないかと思った。

 太田は、本書において、さかんに朝鮮人被爆者の問題を取り上げている。例えば、一九七〇年のあるビラには次のようにあったという(「戦争責任論の転倒と再生」)。

 二五年目の八月六日が来た。
 その日、広島には「軍関係一万、徴用工をふくめ一般三万五千」の朝鮮人が生きていた。米帝軍の核攻撃によって、二万七千人が殺された、と推定されている。長崎での核攻撃もふくめ、今日、「韓国」には生きのこり被爆者一万五千人が生存しているといわれている。(以下、具体的な事実は『コリア評論』七〇年八月号論文に依拠)。)
 広島市三万五千の朝鮮人は、みずから好んでこの地に在留していたのだろうか。
 もちろんそうではない。彼らは日本帝国主義によって植民地奴隷として、広島に動員されたのである。


 このような主張に対して、日本が「被爆国」たることを強調することは、結局は次のような状況に陥るほかない。

米帝国主義がそこで原爆の「威力」を誇示するのに対して、大江健三郎的「革新」派は、被爆者を神に呪われた異人種として向う側に固定し、非被爆者は、決してこのように恐ろしい呪い、悲惨な状況におちいりたくない、という目的をもって結集するのである。すなわち、彼らは、原爆の「威力」に打ちひしがれ、降伏し、ひたすら帝国主義者が自分たちの頭上に核兵器を二度と落としてくれないように、祈願することになる。そうであるとしたら、非被爆者と被爆者の間には、共同の闘争目標はまったく成立しない。被爆者という少数者は、非被爆者という多数者の運動にとって、原爆の「威力」の帰結としての「悲惨」の生き証人として、帝国主義者に対する戦意喪失を、より完全ならしめるための「見世物」にすぎない。

 だが、太田は、八月六日の被爆で重傷を負い、身内もすべて失った広島在住の朝鮮人のおばあさんが「植民地化によって与えられた苦痛に比べるなら、原爆の苦しみなど、なんでもない」と言うのを聞き、「あっ」と「虚を突かれた」。そして、ここに、「非被爆者と被爆者の間に」、「共同の闘争目標」が「成立」する可能性を見出したのである。

 すが氏の『1968年』が指摘するように、太田の視野に、朝鮮人被爆者の問題がにわかに飛び込んできたのは、まさに「七〇年七・七」の衝撃によるものだろう。「率直に告白しよう。私は、実のところ、一九七〇年七月上旬に至るまで、在韓朝鮮人原爆被爆者の反日帝闘争を、その根源において自覚したことがなかったのである」。

 太田にとっては、その衝撃がいささか大き過ぎたようだ。
 惜しむらくは、本書には、先日の記事で見た、津村氏にあるような「構造」の認識と、それがもたらす「異化」作用が希薄である。そのため、「隣」にいるからこそ、ロマンティックな「疎外論」を許さない「異邦人」が、太田においては、それ自体「辺境の最深部に退却」していってしまった感が否めない。

 だが、太田のような言説を、キワモノとして遠ざけてきた結果、「現在」がそこからはるかに後退しているのだとしたら、この太田の「地獄に向っての旅」を嘲笑してばかりはいられないのではないか。

 今月末、神戸映画資料館で、NDUの「倭奴(イエノム)へ 在韓被爆者 無告の二十六年」も上映される。

http://www.kobe-eiga.net/kdff/2012/09/ndu.html

 地獄に退却したと思っていた太田の視点が、何やら再び浮上してきたようだ。

中島一夫