青春の蹉跌(神代辰巳)

 九条のシネ・ヌーヴォで「神代辰巳レトロスペクティヴ」という特集をやっていた。久々に神代作品を何本かまとめて見倒し、堪能した。

 ロマン・ポルノもさることながら、今回は「青春もの」がやけに印象に残った。昨年読んだ、すが秀実によるショーケンこと萩原健一のインタビュー本『日本映画[監督・俳優]論』の余韻だろうか。ショーケンの奔放かつ知的な発言。それに負けず劣らず、『アフリカの光』に焦点を当てながら、いつのまにか大逆事件にまで言い及ぶという、巻末のすがの解説も圧巻だった。




 今回初めて見ることができた『アフリカの光』も素晴らしかったが、妙に気になったのは、あの「エンヤートット…」で有名な『青春の蹉跌』である。なかでも、作中何かに脅えるようにさかんに後ろを振り返るあのショーケンの姿……。前に見たときは、ショーケンが、なぜこんなに後ろを振り返るのか、正直よく分からなかった。だが、今回、ショーケンが「元ブントの高等委員の書記」という設定だったことに気付いた。

 1968年刊行の石川達三の原作では、主人公「賢一郎」は、左翼学生の友人らと親しく付き合ってはいるものの、決して左傾化しない「現実主義者の妥協主義者」に設定されている。おそらくその記憶に引きずられて、彼が元ブントであるはずはないと思いこんでしまったのだろう。

 だが、賢一郎=ショーケンが、元ブントの活動家だとしたら話は変わってくる。彼がさかんに後ろを振り返るのは、ブントの闘士だった昔を振り返るという詩的な意味以上に、かつてリンチを受けた記憶からくる不安と恐怖が、半ば神経症的に背後を気にさせているのではないかと思われてくるからだ。

 神代の『青春の蹉跌』が74年。ということは、68年の原作と74年の映画版の間には、70年に起きた、革マル派系活動家、海老原俊夫のリンチ殺害事件が横たわっている。この事件と前後して、セクト間の内ゲバによるリンチは連鎖的に発生していった。おそらく映画版においては、そうした現実が、「現実主義者」賢一郎の「現実」にいやおうなく介入してきたのだ。

 映画版の賢一郎=ショーケンにとって、もはや現実は、従順にそれを追認、受容し、それに合わせて自分を「妥協」させていけばよいというような代物ではない。それは、暴力的に外から介入してきてしまうものだ。いわば、ショーケンが後ろを振り返るたびに、そこにはリンチという生々しい「外=現実」が画面からしみ出してきているのである。どうりで、やけに気になったはずだ。

 実際、神代版『青春の蹉跌』では、ショーケンと大学アメフト部の親友「浩一」、それにクラブで歌手をやっている浩一の恋人「今日子」の三人が、路地でふいにセクトの学生集団にゲバ棒で襲撃されるシーンがある。どうやら、今日子の元彼(二人の間には子供もいる)が、彼らと対立するセクトの人間だったようだ。巻き添えを食った形の浩一は大けがを負い、入院するはめに。だが、ショーケンはリンチの場から一目散に逃げてしまうのである。「俺は逃げたわけじゃない」と言い訳するうえ、「こいつは関係ないじゃんかよ!」と今日子に当たるショーケン。かつての自分を振り返りながら、ショーケンは何ともやるせない思いを抱くのだ(原作では、賢一郎ではなくむしろ浩一の方が、その後共産党員になっていく政治的な学生として描かれている。いずれにしても、まだ原作は、セクト間抗争はおろか、新左翼の登場前夜にある)。

 原作とは異なり、神代の『青春の蹉跌』には、この内ゲバによるリンチを経験、通過してしまった者が抱く何ともいえないアイロニーに満ちている。そして、おそらく同様の「青春の蹉跌」を味わいながらも、そこから思考を出発、展開していったのが、すが秀実という批評家ではなかったか。

それは何かというと、僕が受けたリンチだね、六九年五月の。三田誠広の『僕って何』が素材にしてる事件ですが。あの時に「外」があるんだ、と思った、一晩リンチされて。(中略)決定的な外がありうると思って、いまだに生きている所が僕にはあるんです。もちろんそれは事後的な話だし、嘘に決まっているのも自分ではわかっている。でも、その支えがなければ僕は理論が組み立てられない。(『重力01』鎌田哲哉大杉重男によるインタビュー)


 すがは、数多の活動家のようにリンチ体験を懐古したり特権化したりはせず、その歴史化、理論化に向かった。『革命的な、あまりに革命的な』の第12章や、『1968年』の第5章は、その結実である。これらの論考によって、従来学生運動負の遺産でしかなかった、そしてその後の学生を運動から遠ざけるものでしかなかった内ゲバやリンチを、現在につながる問題として捉え得るパースペクティヴが切り開かれたのだ。

 すがは、先のショーケンへのインタビューのなかで、『アフリカの光』における彼の演技について、「やたらと寝たり絡んだり、重力が垂直には作用していないような演技、アクションをしている」と評している。これは、例えば『仁義なき戦い』のアクションとは決定的に異質なものだ、と。

 このショーケンにおける「重力」の異常は、おそらく、すがが内ゲバやリンチの中に見出した「脱主体化」された主体というやつと無縁ではないだろう。いや、それはショーケンのみならず、『濡れた唇』(72年)における谷本一の「腹でも切りますか」や、『恋人たちは濡れた』(73年)における中川梨絵らの砂丘での裸の馬跳び、その他、所構わずおんぶやだっこをしてまわる、他の神代作品の人物たちにも、多かれ少なかれ見いだせるものだろう。

 そのようにみてくれば、どこまで企画段階で意識されていたかは不明だが、今回のインタビュー本におけるショーケンすが秀実という取り合わせは、単に偶然の産物ではなく、神代辰巳を介したきわめて歴史的なものだといえるだろう。その「歴史」に見つめられているからだろうか、さかんに後ろを振り返るショーケンが、まるでこちらを見ているようで、映画が終わってからも一向に落ち着かない。

中島一夫