恋人たちは濡れた(神代辰巳)

 院生の修論を読みながら、ひさびさにこの映画のことを考えていた。

 

 冒頭、主人公の「克」が、何度も何度も後ろを振り返りながら自転車をこいでいる。何かから逃げているようなその姿は、明らかに翌年(1974年)の『青春の蹉跌』と同型である。『青春』のショーケンは元ブントの闘士という設定だから、内ゲバのリンチの「衝迫」が彼をさかんに振り向かせていたのだろうか。

 

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  「よしえ」から、「過激派?」「学生さんでしょ?」と問われる本作の克も、ひょっとしたらそうなのかもしれない。おそらく彼は、ある「殺人」に関わったがために、昔なじみの街に帰ってきたにもかかわらず、名前も素性を隠しながら過ごす。脱主体的、脱アイデンティティの主体である。

 

 克は、草原の中でセックスしている男女を覗き見る。だが、それは「窃視」とはほど遠い。彼は見ていることを、悪びれもせず隠そうともしない。見られている二人も、克の存在に気づきながらも、「けったくそわるい野郎だ。やめるこたあねえよ」と言って性交を続けるのだ。

 

 おそらく、これは左翼(文学)の脱構築ともいえるシーンだろう。従来の左翼(文学)は、行動する者が「神」であり、その中心の行為者を、周囲の存在が劣等感を抱きながら見るという構図で成り立ってきた。いわゆる、「転向者」の文学である。

 

 だが、本作の克は、(性)行為を眺め見ることに対して一向に悪びれない。「見ている方が悪いのかね。見せている方が悪いのかね」と嘯くのみだ。彼には「転向者」の劣等感はない。克と、性交をしていた光夫は、いつでも入れ替わっていたかもしれないのである(だから行為が終わると、光夫は、見ず知らずの克になれなれしくしては、車で送っていこうとする。「恋人たちは濡れた」の「恋人たち」とは、いったい誰と誰なのか)。

 

 その「行為/見る」の位階の崩壊が明確になるのが、あの「伝説」の馬跳びのシーンだろう。克、光夫、洋子が、砂山で裸になりながら延々と馬跳びをするシーンは、容易には「行為=革命」に行き着かない、その行動の不可能性自体を映し出している。馬跳びの果てにようやく光夫と洋子が行為に及んでも、洋子は克に助けを求める始末だ。一方、克は克で、すぐ傍で行為を眺めているばかりなのだ。

 

 ここには、エロスを喚起する「欲望」が発動しない。もはやエロスを湧き立たせる絶対者=行為者=非転向者が不在だからだ(このことに苛立って、無理矢理「絶対者」を仕立て上げ、最期にそれと合一をはかってエロスを発生させようとしたのが三島由紀夫にほかならない。金閣は、絶対者に仕立てあげられるために燃やされる必要があった。その意味で、神代作品は、否応なく三島の死以降のエロスの不可能性を刻印していよう)。

 

 にもかかわらず、ラストで克は、「本当はあんたを抱きたいんだ」と、洋子という対象に「欲望」を吐露してしまったがゆえに、その直後、何者かに刺殺されてしまうことになる。欲望とその対象というエロスの構図ほど、この作品から遠いものもないからだ。

 

中島一夫