エレニの帰郷(テオ・アンゲロプロス)

 すべての死者と生者に、過去と現在に、誰もに等しくあまねく雪が降る。無音で静謐なエンドロールがあたり一帯を包み込む。「これが遺作だ」という事実を、観客は静かにかみしめる。

 「二十世紀三部作」の第二篇だった今作のあとに、いったいアンゲロプロスは、どのような完結編を用意していたのだろうか。われわれは、いまだアンゲロプロスの見た「二十世紀」の只中におり、何ひとつ終えることができない。

 もちろん、すべてが過程であり連鎖であったアンゲロプロスの作品群を思えば、たとえ三部作が完結したとして、それが「二十世紀」を総括するものではなかったことは明らかだ。だが、それにしても。どこか、二十世紀の夢の途中で放り出されてしまったような思いだ。

 冒頭、チネチッタ撮影所に一台の車が入っていく。「物語はいつしか過去に埋もれ、時の埃にまみれて見えなくなるが、それでもいつか不意に、夢のように戻ってくる。終わるものはない」。

 その後、本作は、1953年のスターリンの死から語り始められる。この年に、当時ソ連領だったカザフサタン、テルミタウ(ギリシャ難民の町)の路面電車の中で、「スピロス」(ミシェル・ピッコリ)と「エレニ」(イレーヌ・ジャコブ)の情事が交わされ、後に映画監督となる「A」(ウィレム・デフォー)の命が宿るのだ。スターリンの死と入れ替わりにこの世に生を受け、その後「時の埃」(今作の原題は”The Dust of time”)にまみれて見えなくなってしまった「物語」を追い続けることになるこの映像作家「A」に、おそらくアンゲロプロスは自己を投影しているのだろう。

 アンゲロプロスほど、共産主義の夢を映画として撮り続けることで、観客にその夢を、夢想としてではなく映像というリアルな夢として、すなわちそこから覚めてしまう夢ではなく、「終わる」ことのない「いつか不意に」「戻ってくる」夢としてスクリーンに映し出してきた作家もいないはずだ。この作家の画の圧倒的な鮮やかさは、単に技術的なものではない。

 『アレクサンダー大王』(1980)では、偉大な主導者=大王のもと、さまざまな共産主義の経験と試練を経た世界が、その大王なき後、もはや「大王」とは呼ばれない少年「アレクサンドロス」に託されていく。
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 その後の『シテール島への船出』(1984)、『蜂の旅人』(1986)、『霧の中の風景』(1988)の三部作では、共産主義の集団的な「大きな物語=歴史」が沈黙した後の、家族的、個人的な夢=記憶が語られた。人々が「「歴史の沈黙」を前にして途方に暮れている」とき、「何かに向って爆発すべきエネルギーが対象を見失ったとき、反応は二つしなかない。麻薬による自己破壊か、一種の立身出世主義か、その二つです。これは何とも悪しき状況です。世界が動いていないとき、自分がどうして動けるでしょうか。こうしたときに、映画作家はどうしたらよいか」(蓮実重彦との対談『光をめぐって』)。

 アンゲロプロスにとって映画は、この「世界が動いていないとき、自分がどうして動ける」か、そのとき「映画作家はどうしたらよいか」という問いに尽きている。個々の作品は、その問いに対する答えではなく、持続する問いの連鎖なのだ。したがって、アンゲロプロスの映画は、「あたかもそれぞれの作品が異なる章となってまるごと一本の映画を構成するかのようになればよいと思って撮られ」ており、「だから、それぞれの作品の題材を選ぶのも、単純な選択ではなくなる。私は、この本を面白いから一つ映画化してみようと思ったりする人間じゃあありませんからね」というわけだ。

 果たして、映画は、アンゲロプロスの不在に耐えることができるだろうか。

 決して大仰ではない。どこにも「帰郷」する場所が見つからないまま、ついに息絶えたエレニ。また、ともにシベリア収容所にいた女性詩人の言葉を受け、「第三の翼を!」という言葉を遺したまま、川面に身を投げた「ヤコブ」(ブルーノ・ガンツ)。ユートピアなき世界を、何カ国も跨いで彷徨った、この疲れ切った精神と身体を、この先いったい誰が映画として思考し得るというのか。

 死の直前、二人が駅でダンスを踊る素晴らしいシーンが、瞼の裏から離れない。二十世紀においてあの瞬間だけが、二人が身も心も解放された、束の間の一瞬だったのではないか。

中島一夫