スラヴォイ・ジジェクの倒錯的映画ガイド2 倒錯的イデオロギー・ガイド(ソフィー・ファインズ) その1

 古くは、レニ・リーフェンシュタール『意志の勝利』、デヴィッド・リーン『逢びき』から、近くはジェームズ・キャメロンタイタニック』、クリストファー・ノーランダークナイト』まで。数多の映画作品を矢継ぎ早に引用し、シーンに潜むイデオロギーを浮かび上がらせては、主演?のジジェクが早口に語り倒していく。監督は、前作に続いてレイフ・ファインズの妹ソフィー・ファインズ。いかなる学校教育も受けていないという異色の経歴の持ち主だ。

 ジジェクの著書に親しんでいる者にとっては、今作での分析に何か目新しさがあるわけではない。そもそも、ポスト・イデオロギーと呼ばれる現在、なぜ今「イデオロギー・ガイド」なのだろうかという疑問も湧く。いや、「だからこそ」なのだというのが、今作の核心である。

一九八九年から九一年にかけての共産主義体制の解体という出来事は、イデオロギーの終焉の合図だったと言われてきた。全体主義の崩壊という終わり方を余儀なくされた大きなイデオロギーの時代は終わり、われわれはプラグマティックで合理的な政治の新たな時代に入ったなどともされてきた。しかし、われわれがポスト・イデオロギーの時代に生きているというこの常識が何らかの意味をもっっているとすれば、それが露わになったのがこうした暴力の打ち続く暴発である。二〇一一年、イギリスで暴動が続いている間、抗議者側からはいかなる個別の要求も提起されなかった。われわれが直面したのは、ゼロ・レヴェルの抗議である。それは何も要求しない暴力的な行為だった。(『2011 危うく夢見た一年』)

 最近のジジェクが凝視するのは、この暴力である。それは、「システムへの対抗が現実的な選択肢あるいは少なくとも一貫したユートピア的なプロジェクトという姿勢をとってみずからを明らかにすることができず、無意味な暴発という形式しか取れないという悲しい事実」を示している。

 今作では『意志の勝利』や『永遠のユダヤ人』などを引きながら、ナチス反ユダヤ主義が俎上に上る。たとえどんなにおぞましいものであっても、それは世界に意味=全体性を与えた、とばかりに。一方、資本主義とは、「世界の欠如」(バディウ)をもたらし、「意味から全体性を奪い取った初めての社会―経済的な秩序なのである」。だから、どんなにグローバル化しようとも、「それは意味のレヴェルでグローバルなわけではない」のだ。

 「資本主義的世界観」や「資本主義的文明」などというものは存在しない。「グローバリゼーションが与えた基本的な訓(おしえ)は、資本主義が、キリスト教的文明からヒンドゥー教的それに到るまで、また西欧文明から東洋のそれに到るまで、いわばすべての文明にみずからを適応させることができるということにほかならない」。

 今作を見て、最も切迫して感じられたのは、もはやジジェク共産主義を捨てつつあるということだ。かつてあれほどまでに肯定的に論じられてきたはずの、レーニンスターリン毛沢東も、ここではほとんど否定されている。

二〇世紀のコミュニズムは、ところどころ、うまく行った部分もありますが、世界的にみれば大失策です。しかし、コミュニズムが解決しようとした問題は現在も、これまでにもまして残っています。そうした問題は回帰してきているのです。私が、コミュニズムは答えでないという言い方を好むのはそのためです。コミュニズムは解決に付けられた名前ではなく、問題に、コモンズ全体をめぐる問題に付けられた名前です。(『ジジェク、革命を語る』)

 おそらくジジェクは、もはや前世紀の共産主義を捨て去ることでしか、革命はないと考えているのだ。

(続く)