スノーピアサー(ポン・ジュノ)

 いったい、列車に等級制があったのはいつ頃だろうか。
 日本では、1872年の鉄道開業時には、客車は上等、中等、下等の三等級に区分されていた。それが、1897年に一等、二等、三等に変わる。「下等」の名称が、乗客の感情を害するためだったという。また、誤乗車予防のため、1940年までは一等が白、二等が青、三等が赤という色分けもされていた。

 それらの区分が一掃され、いわゆるモノクラス制に移行、現在のように一等がグリーン車、二等が普通車(イギリスでは「スタンダード・クラス」)となるのは1969年。いわば68年革命とともに、「階級=クラス」が見えにくくなったわけだ。いずれにしても、「列車」の歴史は、階級の隠蔽と不可視化の歴史であった。

 なぜ、列車は、階級の隠蔽装置となるのか。それは、目的地にひた走る列車が、乗客を「運命共同体」として束ね、垂直な階級差を、水平な「与えられた場所=役割」の差異へと変換してしまうからだ。

能力主義はなんらかの位階秩序を結束としてともなうかに見える。しかし真相においては、それは位階喪失性を規定根拠としている。業務遂行の目的は、秩序づけの確保に至るまであらゆる労働を過剰に利用することの均一な空虚にすぎないのだから。この能力主義から際立って突如現れる区別のなさは、従来の位階秩序をただ解体したにとどまるたんなる水平化とはけっして同じものではない。全体的に濫用することがもたらす区別のなさはあらゆる目的設定の空虚の優位にしたがって位階段階を「積極的に」許可しないことに起因する。(ハイデガー形而上学の超克」)

 では、乗客の側に位階=階級意識を覚醒させないためにはどうしたらいいのか。「業務遂行」に向けて、永久に列車を走らせればよい。そうすることで、やがて乗客は、列車を走らせ、「秩序」を守り続けてくれる統治者をありがたく崇めることになるだろう。

 ポン・ジュノの最新作の目論見は、まずもって、この前進あるのみの列車において見えなくなっている階級を、視界に取り戻すことではなかったか。そこに映画のモチーフと革命が浮かび上がる。階級が可視化され、「階級意識」が芽生えないことには、革命などあり得ないからだ。

 この作品に革命の不可能性を見る者は、なぜ本作が列車を舞台としたのかを根本的に捉え損なっている。フランスの漫画が原作だから、寓話だから、と言って高をくくっている場合ではあるまい。服装から食べ物から、見かけのうえでは何から何まで「スタンダード・クラス」に水平化・一様化され、階級意識の芽生えが封印され根絶されようとしているなか、おそらく列車とは、人々の階級の記憶をいまだかろうじて残存させているものであり、したがって、想像力によってそれを取り戻すことも可能な、ほとんど唯一の場なのである。まさに、本作の列車は、一様に降り積もり表面上は均されたように見せてしまう「雪」を、内側から穿つもの(=piercer)としてあるのだ。

 言うまでもなく、鉄道は炭鉱の石炭を運搬する目的で開設され、やがて物資や兵器を運搬するなど戦争遂行に大きな役割を果たしていった。人的資源を輸送した、アウシュヴィッツユダヤ人輸送列車や、旧ソ連の「囚人」を輸送するストルイピンカ(拘禁車)などは、その究極形態である。

 ストルイピンカは、ロシア帝政末期の内務大臣で、革命家や労働者に大弾圧を加えたストルイピンの名から取られた。囚人は、乗車の際、衣類や靴(本作にも靴を頭に乗せさせられる印象的なシーンがある)など、所持品をすべて点検されたうえで、三日分の黒パン(本作では『ソイレントグリーン』を想起させる黒いプロテインブロック)と塩漬けの鱒が支給されるが、飢えた彼らはほとんどいっぺんに食べきってしまう。

 その後は猛烈な喉の渇きが襲うが、本作同様、水もコントロールされており、思うように飲むことは許されない。また、水にありついたらありついたで、今度は排泄地獄が待っている。樽が置かれただけの便所を使用できるのは、一日二回と決められているのだ。旧ソ連の収容所に抑留された経験をもつ石原吉郎は、人間は飢えや渇きには耐えられても、排泄を我慢することはできないと述べている。そして、この排泄地獄を繰り返していくうちに、徐々に囚人は「人間」を喪失していくのだ、と。

 しかも、ストルイピンカの外は、零下四、五十度の猛烈な吹雪である。「スノーピアサー」の貧困者ひしめく最後尾車両は、「収容所群島」(ソルジェニーツィン)の世界そのものだろう。

 後に革命のリーダーとなる「カーティス」(クリス・エヴァンス)は、石原の言葉を借りれば、最後尾で繰り広げられる弱肉強食の生存競争において、「なまはんかなペシミズム」を押し殺して文字通り他人を食い、目をつぶって「オプティミスト」になった男である。これまた石原が言うように、「人間」が喪失された空間においては、「人間」は被害者(弱者)ではなく加害者(強者)からしか生まれない。被害者は、嫉妬や怨念から弱者の連帯を形成するほかないからだ。

 だが、本作の洞察は、この生存競争の生き残り=強者から「人間」となり、列車の先頭車両の権力奪取を目指しては縦へ縦へと突破していく、革命家・カーティス「だけでは」革命は成し得ないということだ。革命が成就するには、いわば「横」の扉を開けることで、列車=資本主義自体の転覆を目論む、仮死状態にあったヤク中(「明確なペシミスト」!)、「ナムグン」(ソン・ガンホ)の力が必要なのだ。

 もちろん、列車の転覆した後にユートピアなどない。内にも外にもユートピアはもうない、というところからしかもはや革命はあり得ない、だから中途半端な希望など持つな、というのがこの作品のメッセージである。ラストシーン、そこは、電気も原発も何もない、人間が動物からやり直すほかない場所だ。

中島一夫