ほとりの朔子(深田晃司)

 前作『歓待』も、家に転がりこんでくる闖入者によって、家全体に化学反応が起こっていく話だった。今回も監督は、「朔子」(二階堂ふみ)を親元から引き離し、夏の終わり、海と山のほとりにある主人のいない家に置いてみたのだ。そして前作同様、今作の朔子もマレビト的に、この小さなほとりの町に微かな波紋を起こしていく。

 例えば、山下敦弘もらとりあむタマ子』の「タマ子」には、停滞はあっても迷いはなかった。父親にパラサイトしている以上、すべてが父親との関係に応じて生じるほかないからだ。確かに、モラトリアムやパラサイトは、決められたレールから外れる生き方ではあるものの、そういう意味で「自由」はない。一方、朔子は、作中何度も出て来る二叉路のように、終始迷っている。当初は、朔子はこの「迷い=ほとり」の状態を、「私ってからっぽなんだよ」とネガティヴにしか捉えられない。

 知的で美しく、自分の道を着実に歩んでいるように見え、だからこそ「海希江」(鶴田真由)は、朔子にとって憧れでもあった。だからこそ、今回の「ヴァカンス」にもついてきた。だが、どうも彼女は謎めいている。

 怪しげなホテルを経営する幼馴染の「兎吉」(古館寛治)と実は昔関係をもっていたという噂もある。現在も、研究仲間でもある大学教授と不倫しているようだ。朔子は、我が道をまっすぐに進んでいるように見える海希江もまた、「ほとり」にいることを知る。

 ここでは、「ほとり」は伝染する。あるとき朔子は、甥の「孝史」が、意に反して反原発の集会に駆り出され、スピーチに立たされているのをユーチューブで目にしてしまう。

 高校生の孝史は、父が原発労働者で地元を離れられないなか、原発事故をきっかけに親元を離れ一人「疎開」してきた。だが、学校でも「放射能がうつる」「地元に帰れ」といじめを受け、現在は不登校状態だ。そういう意味で、表面的には、いろいろな意味で原発事故に被害を受けた、反原発の集会でスピーチするにふさわしい人物に見える。

 だが、彼は、実際には家に帰りたいとも思っていないし、自分に帰る場所があるとも思っていなかった。原発に対しても、明確なスタンスを持っているわけでもない。彼もまた、ほとりで逡巡する存在なのだ。この孝史のほとりと、朔子のほとりが、ほとりの町で共振する。二人して、当てもなく歩きだす。

 ラスト近く、朔子は海希江のインドネシア研究が、偽善的で植民地主義的(そのような言葉は使わないが)ではないかと批判する。この国にも苦しんでいる人が大勢いるのに、どうしてその人たちに目を向けないのかと。

 初めて朔子が明確に自らの意見を主張した瞬間だ。だが、実はこれも孝史の受け売りだった。だから、あえなく海希江に「自分=自国のことは、自分が一番分からないのでは」と反論されると、また再び「迷い=ほとり」へと戻ってしまうのだ。

 だが、やがて朔子がネガティヴな「からっぽ」を、ポジティヴな「ほとり」と捉え返す瞬間が訪れる。思い切って海希江に兎吉とのことを聞いてみた瞬間だ。海希江は、それに対して「ひみつ、ひみつ!」と煙に巻く。

 この、二度繰り返された「ひみつ」の声に、解放的な響きを聞きとること。この繰り返される「ひみつ」は、秘密性の強調ではない。「ひみつ」は一度だけでは、「謎に対する答」という単線的な因果律を招き寄せてしまう。

 だが、二度繰り返されることで、明確な因果関係や理屈では割り切れない領域、すなわち「ほとり」の感情を軽やかに肯定するだろう。海希江の声に快活さを聞いた朔子は、だからこそ、その後海希江に孝史との一夜を尋ね返されたとき、同じように「ひみつ、ひみつ」と答えるのだ。

 ひと夏が終わっても、朔子は、他者と他者との「ほとり」を揺れ動く存在でいるだろうか。それとも、予備校から大学へというレールに復帰することで、目標に向かうブレない女性へと「成長」を遂げていくだろうか。あの水辺にたたずんでいた、眩しい「ほとりの朔子」は、この夏とともに、もう永久に失われてしまうのかもしれない。

中島一夫