天皇制の隠語(すが秀実)

天皇制の隠語

天皇制の隠語


 一言でいえば、最近の著者は、『吉本隆明の時代』、『反原発の思想史』と、(広義の)アナーキズムの蔓延に対して、ボルシェビズム、すなわち「党=普遍性」の復権を追究してきたといえるだろう。

 例えば、『白水社』の連続インタビューにおいても、
http://www.hakusuisha.co.jp/topics/taisho/suga01.php

「アナに比べて、ボル的なものはどうも日本に合わないのではないか」という問いに対して、著者は次のように答えている。


それは、3・11を過ぎても変わらない68年以降の「気分」ではないでしょうか。丸山眞男は、「日本の思想」の「精神的雑居性」を原理的に否定し、「世界経験の論理的および価値的な整序を内面的に強制する思想」たりえたのはキリスト教マルクス主義だけだと言いました。でもキリスト教には教会があって、マルクス主義にはコミンテルンがあるわけですよ。ロシア革命後にコミンテルンができたからこそ、日本人でも「主体的」になれた(笑)。そういう意味では、68年以降、より強い意味ではソ連崩壊以降、マルクス主義の主体どうこうなんてことは、一般的にはほとんど無理な話でしょう。「主体性」というのは、コミンテルン的なものに対する「代補」として可能だったわけですから。一方、アナは気分の問題だから、昔も今も世界的、中央集権的なマトモな組織があるわけではないし、「気分」として広がるものですから。そういう意味で、今でも非常に広がりやすいわけです。


 半分冗談、半分本気で言えば、「アナ」は、「雪の女王」のごとく「ありのままの」純粋で透明な魂を希求する「気分」として、特に3・11以降の現在、この国に蔓延していると言ってよい。

 その純粋、透明な「ありのまま」を、「本来性」と言い換えれば、ハイデガーを批判したアドルノの『本来性という隠語』を、また「自然成長性」と言い換えれば、それに対抗すべく「目的意識性」(レーニン)をそれぞれ招き寄せ、本書の意図――いったい、今なぜ、日本資本主義論争における「天皇制の隠語」=「封建制」(「半封建的」)なのか――が、明確に見えてくるだろう。

 すなわち、68年以降、ソ連崩壊以降、3・11以降と、ますます「「共産主義の理念」を語ることが困難な現代においてこそ」(「あとがき」)、あえてマルクス主義の優位が認められる時点に立ち返って考えるべきだということ。

 そのために、「目的意識性」をもって天皇制批判を思考し得た「それほど多くなかった」例である「「大逆」事件のなかの数人の被告や三二テーゼ=戦前講座派」を再考すること(本書p37)。

 こうした意図のもとで、本書では、そのうち、後者の「戦前講座派」に焦点が当てられたわけだ(前者の「「大逆」事件」が、著者の持続的なテーマであることは言うまでもない)。

 「あとがき」に言われるように、リベラル派にとって、今や天皇や皇室は、批判の対象どころか「最後の防波堤」とさえ見なされている。「かつて、天皇制の隠語としてあった封建制は、今や、リベラル・デモクラットを指す隠語とさえ化するのかも知れない」。

 こうした趨勢のなか、本書の目論見は、講座派の天皇制批判をテコにして、マルクス主義アドヴァンテージを、理論的かつ実践的に復権することにほかならない。

 同じく3・11以降、天皇制に回収されていく言説に対して批評的たり得ている稀有な著書として、金井美恵子の『小説を読む、ことばを書く』(とりわけⅣ章)と、『目白雑録5 小さいもの、大きいこと』とがある。
http://d.hatena.ne.jp/knakajii/searchdiary?word=%B6%E2%B0%E6%C8%FE%B7%C3%BB%D2&.submit=%B8%A1%BA%F7&type=detail


 現在、両者が、そうした文脈において伴走していることは、互いが互いの著書に言及し合っていることからも明らかだろう。

 そういえば、あるところで著者は、「自分にとっての68年とは、金井美恵子津村喬とを合わせて読むことだった」と述べていた。そのときは、その言葉の射程がつかみきれなかったが、本書を読んだ今はよくわかる(本書にあるように、津村から猪俣津南雄まで線を伸ばせば、それはより明瞭になるだろう)。

 本書については、他にも書きたいことがあるが、いずれ。

中島一夫