君の膵臓をたべたい(月川翔)

 すでに盛んに言われているように、本作は(少なくとも映画版は)、『世界の中心で、愛をさけぶ』(小説2001年、映画版2004年)と似ている。だが、本当に目を引くのは、むしろ類似ではなくその差異だ。

 いちいちストーリーは追わないが、まず本作『キミスイ』は、『セカチュー』的な「余命もの」を真っ向から裏切っている。おそらく、「余命」という発想が、もはやリアリティを欠いているのだ。災害、テロ、原発事故、過労、ストーカー……。誤解を恐れずに言えば、別に大病でなくても、「明日死んでしまうかもしれない」という不安や、未来への信頼喪失は瀰漫しているといってよい。したがって、本作の病気に対する軽視に見えるものは、あまりに体感治安が悪化していることのあらわれなのだ(そう捉えてはじめてラストが腑に落ちるだろう)。

 『セカチュー』は、白血病のヒロイン「亜紀」と、詩人・萩原朔太郎にちなんで名づけられた程度にはその名が卓越性を持つ「朔太郎」との純愛ストーリーだった。亜紀の余命が尽きそうになるにつれ、二人の恋は燃え上がり、また二人の世界の閉鎖性は純度を増していく。

 その閉鎖性を表していたのが、深夜ラジオへの匿名の投稿や、それを模したお互いへのメッセージを吹き込んだ二人だけのカセットテープ交換である。そして、そのテープの交換を媒介していたのが、大人になってから朔太郎の恋愛相手となる、当時小学生だった別の少女だった。

 すなわち、互いに特別な存在同士による特別なメッセージは、その媒介をしていた者までも特別な存在となるよう二人の関係に巻きこみながら、求心的に同心円を描くように機能していくのである(だからラストは、朔太郎と(元)少女の二人が、朔太郎と亜紀にとっての「世界の中心」に並び立たねばならないのだ)。世界の「中心で」愛をさけぶとは、この求心力にほかならない。

 一方、『キミスイ』においては、ついに「愛」は語られない。というか、この作品では、明確に恋愛が拒絶されている。膵臓に病を持つ「桜良」は、「僕」を「仲良し君」としか呼ばないし、「僕」も桜良を「君」としか呼ばない。「君の膵臓をたべたい」というタイトルにおいて重要な言葉は、ホラーチックな「膵臓」でも「たべたい」でもなく、実は「君」なのだ。

 これは、いくら親密になっても、お互いを「君」と呼び続ける距離を保ち、いかに恋に落ちずに友愛を維持し続けるかという二人の物語なのである。セカチューが、お互いに特別な存在である二人による求心的な物語だったとしたら、キミスイは、二人が決して特別な存在に昇華しない、言いかえれば一つの「中心」に回収されないというところに、作品のモチーフが賭けられている。本作は、セカチューを拒み続けようとする物語だと言ってもよい。

 これはいかなる事態なのか。おそらく背景には、恋愛への不信とリアリティの喪失があろう。恋愛は面倒くさいものであり、結婚に至るまでの夾雑物となりつつある。それは現代においては、リスクが高すぎる行為なのだ。できれば恋愛をすっ飛ばして「いきなり結婚」したい?(結婚は、ダブルインカムになるし子は宝なので、あいかわらず必要)。

 代わって相対的に浮上してきているのが、「友達」であり「親友」である。今や異性の恋人ができることは同性の親友を失うことを意味する。桜良の親友の「恭子」が、「僕」に嫉妬し攻撃的であり続けるというのは、現在の若者にとっては不自然ではないことなのだろう。

 したがって、キミスイにおいて、メッセージは特別な存在の恋人同士ではなく、桜良から僕へ、また桜良から恭子へと送られるのであり、しかもメッセンジャーになるのは僕自身なのである。桜良のメッセージを受けた僕が、恭子に「僕の友達になってください」と伝えるとき、本作が徹頭徹尾、「恋愛」ではなく、実は「友達=君」をめぐる物語であることを告げている(映画のもう一人のキーパーソンである、ガムを友達になるためのコミュニケーションツールとして使う「ガム男」に、妙に存在感があるゆえんだ)。

 それは、お互いを「特別な存在=固有名」ではなく、「君」と呼び続けようとする、さらに言えば「君の」膵臓をたべたいと、なぜか相互に言い合う物語だと言ってよい。それは、「余命」を、劇的で特別な日々ではなく、凡庸な毎日の積み重ねとして「きちんと生活したい」という桜良自身の願いからくるものであった。

 「世界の中心」から「中心」の拒絶へ。あるいは、「特別」から「凡庸」へ。さらにはまた、固有名から「君」へ。恋愛のリアリティの喪失は、体感治安の悪化という市民社会の崩壊からくる不可避的な事態だろう。市民社会とは、「求心的」に恋愛(欲望)の三角形を形成するものだったからだ。そんななか、何か(それがここでは「膵臓」というだけだ)を等価交換しあう「親友=君」の希求こそが、今最も「さけばれて」いるように思える。

中島一夫