永い言い訳(西川美和)

 「後片付けはお願いね」。そう言って、妻の夏子は旅行へ出かけていった。「そのつもりだよ」と夫の幸夫(サチオ)は応え、それが夫婦の最後のやりとりとなる。

 今となってはあのとき妻は、まるでそれが死出の旅路であることを知っていて、死後の後始末を「お願い」していったようにも思える。また、映画はそれを裏付けるように、「後片付け」のシーンで閉じられる。

 冒頭、作家である幸夫は、美容師である夏子に、いつものように髪を切ってもらっている。リビングのTVには、クイズ番組で「ヌエ」と正解し、得意げにヌエの蘊蓄を語っている幸夫の姿が映っている。ヌエが日本古来の想像上の生物なら、その蘊蓄を画面の向こう側で傾けている自分は、いったいどんな「生物」なのか。すべてが嘘だ。「似非野郎」だ。そもそも作家という職業からし虚業ではないか(現に小説版では、夏子にそう言われる)。

 しかも幸夫は、あの連続試合出場で有名な野球選手「衣笠祥雄」と同姓同名であり、幼少のころから、その「鉄人=本物」性に対するコンプレックスと「偽物感」を背負ってきた。作家になってペンネームを持ったのも、本名を捨てるためでもあったようだ。

 いや、作家になったのは、ある意味で夏子の「せい」だ。大学卒業後、再会したとき「衣笠くんは将来小説を書くって言ってたわよね」と。その時は「まだ」書いていなかった幸夫は、もし夏子と出会わなければ、今も永遠の「まだ」に待機していたかもしれない。それは、いつか訪れる真実の時に向けて自分は備えているのだという、終わりのない「永い言い訳」の時間でもあっただろう。

 だが、「きっと書くといいわよ」という夏子の一言で、言い訳もできなくなった。その時の幸夫には、まだわかっていなかったのだ。小説を書きだすことこそが、永遠に終わらない「言い訳」の始まりなのだということを。小説を書けば書くほど、真実(本物)からますます遠ざかっていくほかない。「あんなものはクソですよ、クソ!」。幸夫は酔って毒づき続けるほかはない。

 新作小説『永い言い訳』に、幸夫は「人生は他者だ」と書きつける。それは、人生には他者が必要だという意味ばかりではない。それ以上に、書くという行為こそが「人生を他者」にするということ。それを思い知らされた者の言葉だ。書いていくこと自体が、書けば書くほど真実=本物に至ることのない「永い言い訳」なのである。

 だから幸夫は、第一の読者だったはずの夏子に、徐々に書いたものを読ませなくなる。夏子は「別にひどくけなしたりしてきたわけじゃない。ただ私には、誰よりも長い年月彼の書くものを身近で読んできた者としての厳しさがあった」。「しかし私もいつからか、そうしょっちゅう読まされたりしない方が気が楽だと思うようになった。共に暮らす者からすれば、書かれたものと書いた本人の実態には必ずやギャップがあって、それを許せなくなる瞬間が訪れる」。「仮に事実、そうだとしても、自分の身に起きたことを削り取り、外に向かって書く、売る、という蛮行を、ただ黙って理解し、赦し続けることだけが唯一「書く者」の家族の務めであるはずなのに、それが出来なくなる」。「嘘嘘嘘。どうせどれもこれも、嘘つきが書いた、嘘ばっかりじゃんか。私はいつの間にか、彼の作品の、最大の敵になっていた」(小説版『永い言い訳』。この場面は映画版には存在しないが、ここでは映画版と小説版の区別をあえてしない))。

 この作品が残酷なのは、すでにこのように最初に破局は訪れており、しかももう挽回は不可能だということだ。夏子は永遠に帰らず、再び幸夫の「言い訳」を聞くこともない。幸夫は、夏子に導かれるように、彼女が生前親しくしていた、大宮家の残された親子と関わることになるが、結局幸夫は、小説の世界ではない、あまりにもまぶしいばかりの真実の親子関係(海辺のまぶしいシーン!)の周辺を、うろうろするばかりだ。まるで幸夫の小説のように(大宮家は、父が「陽一」、息子が「真平」、娘が「灯(あかり)」と、まさに「まぶしい真実」を体現するかのような名を持っている)。

 一瞬、大宮家に不在となった「母親」のような位置に、首尾よく代打で収まったかに思えたが、やがてその座も理科の実験をしていた「鏑木先生」に奪われてしまう。幸夫も作家として「センセイ」と呼ばれはするものの、本物の「先生」にはかなわない。本名を捨てても、なお彼は「偽物」なのだ。そもそも大宮親子は、ずっと夏子がそう呼んでいたのだろう、自分を幸夫「くん」と呼ぶのである。

 子供のいない幸夫にとって、子供たちは甘美な毒だ。まるで、免罪符にすがるように、幸夫は子供たちと関わろうとするが、それも一瞬のしゃぼん玉だ。

 それを思い知るのが、出版パーティーで灯からプレゼントされた写真を見た瞬間だろう。河原のバーベキューの写真に映っていたのは、幸せそうな大宮親子の中に自然に溶け込み、今まで見たこともないような笑顔を浮かべている夏子の姿だ。

 いったい、なぜ灯はこの写真を渡してきたのだろうか。もちろん、大宮家からすれば、夏子の思い出の一枚を、ということだろう。だが、幸夫にすれば、幸夫が真平や灯と関わったのは、あくまで夏子の代打だったことを痛感させられる一枚だ。写真に映っている夏子は、幸夫にとっては自分の不在でしかない。夏子と幸夫は、この「風景」を共有していなかったからである。

 さらにそこには、「女の子」である灯の直感からくる「復讐」が重ねられていたと言えば読み過ぎか。夏子が自分たちとバーベキューをしている間に、いったいこの幸夫「くん」はどこで何をしていたのか。思えば、割と早くに男として分かりあえた真平に比べると、最初から灯は幸夫に厳しく、鏑木先生にも真っ先になびいたではないか。

 生前には知るよしもなかった、夏子の充実した「親子関係」。夏子は大宮家との時間に自分を誘ったのか、誘いもしなかったのか。今となっては、それも定かではない。いずれにせよ、一瞬自分にももたらされたかのように思えた充実した「親子」の時間すら、本物ではなかったことを、このとき幸夫は思い知ることになる。かくも、人生は他者なのだ。

 「もう愛していない。ひとかけらも」。まるで幽霊となってそう伝えにきたように、遺された夏子の携帯は、幸夫宛の未発信のメールを一瞬表示する。それを見てしまった幸夫は逆上するが、だから幸夫は駄目なのだ。夏子に本当に愛がなかったのなら、「もう」「ひとかけらも」などとは言わない。そんなふうに書くということは、愛していた、愛そうとしていたということだ。むしろ、こんな言葉を夏子に書かせるほど、彼女を孤独に追いやったのはいったい誰なのか。冒頭の散髪のやりとりを思い出してみるがいい。

 やっと幸夫にもそれがわかったのだろうか、ラスト、しばらく幸夫は、夏子があのとき使っていたハサミを見つめた後、それをゆっくりと箱に収める。

中島一夫