合衆国最後の日(ロバート・オルドリッチ)

 ベトナム戦争ウォーターゲート事件に揺れるアメリカ(公開は1977年)。確かに、合衆国がはじめて「最後の日」を意識した時期かもしれない(原作はウェイジャーの小説『合衆国最後の日』)。2時間26分、緊張が途切れることがない。思わず身を乗り出し、息を飲み、手に汗を握る。さすがに、オルドリッチが、「生みの親として胸を張れる」と言った作品だ。

 脱獄した元空軍准将の「デル」(バート・ランカスター)は、ムショ仲間三人とサイロ(核ミサイル基地)にたてこもる。ベトナム戦で捕虜の身となった彼は、その間にこの戦争におけるアメリカの重大な秘密を探り当てていた。

 それは、合衆国にとってのベトナム戦が、文字通り「政治の延長」としての戦争=政治だった――もはやお互いの核によって、全体戦が不可能になった冷戦下において、いかにアメリカが「本気」であるかを共産主義圏に示すための戦争だった――という事実を明かす文書の存在だった。合衆国は、政治的な駆け引きのために意図的に戦争を長引かせ、大量の自国兵に犠牲を強いたのだった。

 デルは、その事実の公表前に、えん罪逮捕によって収監されてしまう。9機のICBM(大陸間弾道ミサイル)発射を交渉カードとした今回の立てこもりは、その文書の公表を、大統領に迫るための決死の行為だった。

 デルらが立てこもったサイロと、大統領以下、合衆国首脳が一堂に会する大統領執務室、さらにはSAC(戦略空軍総司令部)と、空間的に離れた三か所を舞台としながら、状況はめまぐるしく展開する。そして、その刻一刻と変化する状況が、2分割、3分割、4分割と分割されていく画面にそれぞれ映し出され、さらには、サイロの入口周辺の監視カメラの画像までその画面分割に割り込んでくることで、観客はその都度、一度に複数の画面を追うことを強いられる。

 この作品は、戦争=政治を「描いた」作品ではない。こうした分割されていく画面自体が、戦争=政治なのだ。ここでは、それぞれの画面が、神の視点で束ねられることなく、並列かつポリフォニックにせめぎ合っている。

 デルの元同僚のSAC司令官は、デルらが籠城するサイロ前に小型原子爆弾を設置しようとする驚愕の作戦に出る。特殊部隊が、監視カメラの死角からサイロ内に侵入、少しの振動も許されない爆弾の運搬と設置のシーンは、時間が永遠に感じるほどだ。一サイロ内においても、核に対しては核を、という冷戦の論理が貫徹される。

 さらに映画は、最も「国家」の意志を体現するはずの大統領が、実は「国家」から疎外された存在でもあることを暴露する。合衆国「最後」の日とは、そういう意味でもあるだろう。

 「ディヴィッド・スティーヴンス大統領」が、作中で総括するように、ベトナム戦に関する秘密文書を公開するか否かは、これからの合衆国を「開かれた政府にするか否か」という決断に関わっている。最終的に大統領は前者を選択するが、むろん「国家」がそんなことを許すはずもない。そのとき、国家は、自らの意志を表現する主体たる大統領すら、排除、抹殺しにかかるだろう。国家にとって大統領すら、取り換え可能な存在でしかないからだ。

 文書公開をめぐって、あくまで大統領個人と交渉しようとするデルは、そのことに気づかない。元空軍のデルにとって、いまだに大統領は、すべての意志、命令の主体なのだ。それが彼の限界である。事態は、大統領とデルを、同じ論理に従った「味方」同士にさせていく。

 ラストで、大統領を人質したデルは、逃走に用意されたエアフォースワン(大統領専用機)に乗り込もうとサイロを出る。そして、滑走路までの道のりで、狙撃手の狙いをかわそうとしたデルと「パウェル」(もう一人のムショ仲間はすでに死亡)は、大統領をも巻き込むように、三人で「背中合わせ」にぐるぐると回転するのだ。このシーンほど、もはや彼らが同じ「立場」に立たされている事態を物語っているシーンもないだろう。国家にとって、彼らは、秘密を知り過ぎた男たちである。したがって、狙撃手は、当たり前のように、初めから「三人」用意されているのだ。

 最後はデルの命令にしたがうものの、だが、黒人のパウェルだけは事態を見通していた。日ごろから自らの意志を代表されていると思っていない彼に、デルのような大統領へのリスペクトはない。むろん、合衆国が、黒人の大統領をいただくようになる、ずっと前のことである。

中島一夫