インセプション(クリストファー・ノーラン) その1

 一分の隙もなく構築された建築物といった印象だ。
 前作『ダークナイト』で示された、神(超越性)なき「悪」の空間を、本作では、縮減する現実を一気に包摂しにかかる虚構(夢=潜在意識)の空間としてさらに展開、二時間半の覚めることのない「夢」へと観客を誘う。

 ずいぶん前に、先行上映で見たのだが、レビューを書くタイミングを完全に逸してしまったようだ。その間に、さまざまな作品の仕掛けについては、すでに至るところで言及されてしまった観がある。だから、ここでは、ノーランの「夢=映画」を見ているなかで見た(夢の中の夢!)別の「夢」について語ろう。

 映画を見ながら漠然と思い出していたのは、かつて柄谷行人が受けたという「後催眠暗示」というやつだ。

「以前私は催眠術を正式に習ったことがある。そのとき、一つだけ不思議だなと思った経験があった。七月の暑いさかりで、浜辺からの風を通すために窓があけはなたれていたが、ふと気がつくと私は次々と窓を閉めようとしていたのである。ふと気がついたというより、「なぜ窓をしめるのか」と教師に問われた瞬間に気づいたのである。他の仲間がすでに笑っていたので、私はただちにその意味を了解した。私が「何となく寒いんです」とでも答えたなら、彼らは爆笑したにちがいない。つまり、私は催眠の実験台になったとき、「後催眠暗示」をかけられており、催眠を解いてしばらくのちに窓をしめにいくようにさせられていたのだった。(中略)それは一般化すればこういうことになる。私が自由に且つ合理的にあることをしていて、それが何ものかに強いられてやっているにすぎないのだといわれても、どうして納得できるだろうか。」(「夢の呪縛――埴谷雄高について」)

 他人の夢に侵入し、そこに夢の世界を設計、構築すること。さらに、そのうえで、脳の中で自然に育つあるアイディアをそこに植えつけること。「インセプション」とは、まさに「後催眠暗示」そのものではないか。

 「コブ」(ディカプリオ)にインセプションされた彼の妻や巨大企業の御曹司が、自らを「束縛した暗示そのものをくつがえす」ことは不可能だ。妻に植えつけられた「この現実は現実ではない」というアイディアや、御曹司の「わが道を行け」というそれは、彼らの中であまりに自然に育っていて、当人たちは、主観的には「自由に且つ合理的に」振舞っていると思っているのだ。

 だが、本当にやっかいなのは、その先だ。

「何ものかが私を強いているのではなく、私が私自身を不充分にしか対象化しえないこと、つまり私が私自身を徹底的に対象化しえないような仕方で存在してしまっているということが、私の行為を私の自意識をこえたものたらしめているということだ。(中略)かりに私が私自身の力によって、窓をしめたことを疑い、その肯定的な理由づけではなく《なぜ》という問いを遡行し、私を呪縛した暗示そのものをくつがえすにいたることは可能であろうか。不可能である。が、埴谷雄高がめざしたのは、その不可能を実現しようとすることであった。それは、私たちが「眼ざめぬ夢」のなかにいるとして、本当に眼ざめることは可能かという問いにほかならない。」

 柄谷が言っていることは、もはや催眠術の問題を超えている。それは、「私が私自身を徹底的に対象化しえないような仕方で存在してしまっている」という、われわれの存在自体の問題である。もし、われわれが自らを対象化し得ず、したがって「窓を閉めた」という行為の理由を、完全に「遡行」することができないとしたら、実際に催眠を受けていてもいなくても同じことになる。自分にとって、自らを対象化し得ない部分が不可避的に存在するということは、言いかえれば、自力では現実と催眠状態(夢)とを鮮明に分けることができないということだからだ。すなわち、そこでは「他者催眠とは実は自己催眠であって、私自身が私にそうするように拘束した」と言っても過言ではないのである。

 『インセプション』では、ラストで、自分が今いる世界が、現実か夢かを判断するためにコブが使う「トーテム」と呼ばれるベーゴマが、このまま回り続けるのか(=夢)、はたまた止まって倒れるのか(=現実)が宙吊りにされる。これには賛否両論あるようだが、見てきたように、宙吊りにされるのは、作品の構造からして必然なのだ。

つづきは次回。

中島一夫