ウェディング・ベルを鳴らせ!(エミール・クストリッツァ)

 もちろん、あのクストリッツァの新作なのだから、面白かったに決まっているのだ。だが、あからさまに田舎と都会の差異が導入され、これ見よがしにアダムとイブの楽園追放のストーリーが挿入されることで、何とか物語が駆動していくのを見るにつけても、やはりあのとき――傑作『アンダーグラウンド』の「地下」が爆破・崩壊したとき――、この映像作家は決定的に歴史を喪失したのだということを痛感せずにはいられない。

 共産党パルチザンのマルコとクロは、クロの愛人である女優のナタリアを、ナチス将校から奪還しようと試みるもののあえなく失敗。マルコは、その際重傷を負ったクロを、同志の一族郎党とともに祖父の家の地下にかくまう。そして、地下の者たちをだまし、第二次大戦が終わっても、なおナチスとの戦争が継続していると信じ込ませ、彼らに武器を作らせては地上で売りさばき、いつのまにか手に入れたナタリアとともに巨万の富を築いていくのだった(マルコ役のミキ・マノイロヴィッチは、新作では、セルビア初の世界貿易センタービル9・11テロで破壊されたツインタワーそっくりのビル)を建設しようとするマフィアとして登場する)。

 だが、深読みすれば、同時にあのときマルコは、徐々に共産主義が失効していく地上の世界を彼らには見せまいとして彼らを地下へと導き、地下の時間を操作しては、彼らが「夢」から目覚めるのをできるだけ遅らせるという、いわゆる「遅延行為」を働いていたのではないか、という気になってくるのだ。そして、それもリミットに達したとき、純粋に“チトー=党”とその勝利を信じきっていた地下(アンダーグラウンド)の空間は、崩壊を余儀なくされたのだ、と。

 その後の『ライフ・イズ・ミラクル』では、冷戦崩壊後、旧ユーゴの世界が徐々に均質化されていったことを明かすように、ボスニア・ヘルツェゴビナセルビアを結ぶ線路の上を、実にさまざまなものが「交換」されていくさまが映し出された。

 そのときロケ地として使ったセルビアの山村を、クストリッツァが買い上げて作ったという今回の新作は、まさにこの山村が最後のとりでだと言わんばかりに、外敵の侵入を阻もうとさまざまな仕掛けが周囲一帯に張り巡らされている。数々の落とし穴、煙突から望遠鏡、寝過ごして監視を怠らないよう時間になると飛び出すベッド、などなど。主人公ツァーネの家は、祖父の作ったおもちゃの仕掛けが満載なのだ。

 クストリッツァ作品に決まって登場する、手工業的な、だが端正さとは程遠いにぎやかさで観る者を圧倒するこれらの機械仕掛けを目にするたびに、私は、花田清輝の「鏡のなかの言葉」(『復興期の精神』)というエッセイを思い出す。

 そこで花田は、例の”あまのじゃく=批評精神”を発揮し、ドストエフスキーの『悪霊』の中でもとりわけ目立たない登場人物レンプケーに焦点を当てる。そして、彼の手による紙細工の劇場や機械仕掛けのオーケストラについて、こう述べるのだ。
 「ここから、我々は、玩具が遊戯のための道具であり、単により楽しく遊ぶためにつくり出されるものだという、ひろく世に行われている常識的な見解にそむき、それが我々の心の危機からうまれるものだという、ひとつの新しい見解をひき出すことができよう」――。

 作を追うごとにエスカレートするクストリッツァの玩具についても、同じことが言えないだろうか。ここには、旺盛な遊戯精神というより、どうも彼の「心の危機」が感じられてならない。かつては、彼の画面を悠々と飛行する人物たちは、現実世界の重力から解き放たれる「恩寵」に恵まれた者たちであった。だが、新作を終始飛行し続けるサーカスの人間大砲男ときたらどうだろう。それは、もはや恩寵のカリカチュアでしかない。もう、どこを探しても、現実世界の重力から自由な空(間)など存在しないのだ。「まだ第二次大戦は終わっていない!」。激しい銃撃戦とともに、新作でも惜しみなく繰り広げられる例のドタバタ劇が、かつての作品に比べてより一層の「危機感」で胸に迫ったのは、果たして私だけだろうか。

中島一夫