ウルトラミラクルラブストーリー(横浜聡子)

 浅田彰中村一義柴崎友香千原ジュニアといった、多様で、かつそうそうたる面々がこぞって絶賛していたので、勢い込んで映画館に駆けつけた。だが、残念ながら、「カラックス」のような「疾走感」(浅田)も、「自由」や「生成」(柴崎)も、「圧倒的な命の肯定」(中村)も、私にはまるで感じられなかった。

 急いでつけ加えよう。面白くなかった、と言っているのではない。私がそこに見たのは、むしろ「停滞」であり、「不自由」であり、命の「抑制」であって、ことごとく評者らと真逆の感触を抱いてしまったことに、いささか驚いているのだ。ひょっとして、私は違う映画館に飛び込んでしまったのだろうか。

 松山ケンイチ演じる「陽人」は、青森の田舎で有機農業を営んでいるが、「脳みその配列が人と違う」ために、突然暴れたり、わめきちらしたり、脈絡のある行動をとることができない。やがて彼は、東京からやって来た麻生久美子(最近やけによく見る)演じる「町子」に一目ぼれする。幼稚園に勤め始めた「町子先生と両思いになりたい」と想いをつのらせる陽人は、だが、そのためには、頭から農薬を浴びなければならない。そのことは、最初に町子がこの地に現れたとき、まるで彼女が引き連れてきたかのように、あたり一帯に農薬を散布するヘリコプターがやってくる場面に、すでに示唆されているだろう(このヘリは、エンディングにもやってきて、その存在感をアピールする)。

 どうやら、農薬を浴びることで、陽人の支離滅裂さは和らぎ、心は落ち着くようだ。当初は、まるで聞き取れなかった強烈な津軽弁も、それによってずいぶん聞き取りやすくなっていく。そうした陽人の変化が、まさか農薬をかぶってまで、自己を抑制している結果とは露も知らない町子は、「前の自分と今の自分、どっちがいい?」という陽人の問いに、悪びれもせず「今かな」とさらっと答えるだろう。

 こうして見てくれば、少なくとも物語の主線は、田舎で有機農業を営む天然育ちの陽人が、農薬散布によって辺り一面を均質化しようとする「町」(子)の論理(標準語)との接触によって、次第に己を去勢させていくところにあることは明らかではないか。したがって、陽人が農薬を浴びる行為を一貫して「進化」と呼ぶ、その「進化」が、「町(子)」の論理への「同化」にほかならないことも、また明らかだろう。

 町(子)と両思いになるには、自分を殺すほかはない(最初に陽人に農薬をかけていたずらするのが子供である以上、ここでは子供も純真どころか残酷でしかあり得ないし、さらにいえば、いわば子供たちは「町の論理」を陽人の頭(脳)に染み込ませようとする、町子先生の「尖兵」でもあろう)。農薬散布のヘリコプターの下に飛び出していっては、農薬を浴びまくる陽人は、まるで空襲の下に己の肉体を差し出そうとする、玉砕覚悟の自己犠牲の精神ではないか。

 だから、「これは戦争映画だ」といっても過言ではない。何の戦争か。むろん、有機農業を己の支配下に包摂しようとする、資本と国家による(対する)戦争である。

 土の中に首まで埋まり、有機栽培のキャベツと顔を並べる陽人の姿は、同じく土の中に徐々に女が埋まっていくにもかかわらず「しあわせな日々」と題された、ベケット劇の座りの悪さにも通じる。ラストでにやっと笑うのが陽人ではなく、あくまで子供を引き連れた町子であることを含め、『ウルトラミラクルラブストーリー』の無気味さは、やはり「自由」や「疾走感」や「命の肯定」といった言葉とはとても釣り合わない。そのように捉えてしまえば、結局それは、ありきたりな“陽人的奔放さ=有機農業”の美学化にしか貢献しないだろう。

中島一夫