月夜釜合戦(佐藤零郎)その2

 本作に登場する男たちは、何らかの釜ヶ崎の記憶=歴史を背負っている。二代目を継ぐはずのタマオがしばらくこの地を離れていたのは、「仁吉」(川瀬陽太)に向かって吐き捨てるように、組のやくざが警官と共謀し賄賂をやり取りしていたことが発覚した、一九九〇年に起きた釜ヶ崎暴動の記憶からだろう。また、釜共闘(カマキョー)の青年たちは、釜ヶ崎の労働者手配の多くをやくざたちが牛耳ってきた歴史があり、労働者との暴動が絶えなかったところに、一九七〇年に作中何度も出てくる「センター」(あいりん総合センター)が出来たことを契機に、その二年後、「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議」が作られる、その末裔たちである。

 だが、本作の主人公(あえてそのように言っておく)は、あくまで女と子供だ。冒頭とラストからもそれは明らかだろう。だから、いちむらみさこの次のような言葉も重みを帯びる。

釜ヶ崎の人たちの生き様が再開発によって押さえ込まれていくことを食い止めようとするわたしたちがこのジェントリフィケーションを批判するときに気をつけなければならない事は、ジェントリフィケートされた釜ヶ崎では現に子どもや女たちが戻ってきており、出ざるをえなくなった/追い出してきたこれまでの状況にどのように落とし前を付けるかということだ。(中略)なくなった釜とはなんだ? やはり女や子どもは追い出されるのか? いや、喪失を、女、子どもや釜で埋めようとするのか?(批評新聞「CALDRONS」第1号)

 いちむらは、「最後まで凛として美しいメイの人物像は妄想でしかない」と言い切る。ジェントリフィケーション批判は結構だが、それ以前に男たちは女や子供を追い出してきたのではなかったか。野宿生活を十四年続けているといういちむらは、本当は「男の」妄想、と付け加えたかったのだろう。だから次のように書く。

この流れに抗する時、野宿生活者の大多数が男だとしても男中心のロマン主義的な連帯は、まったく足下をすくわれてしまう。男性中心の異性愛主義が作り出すファンタジーを解体しながら、どのように繋がれるか、工夫し補い合えるかを想像していかなければならない。

 確かに本作においても、仁吉は釜足組に対抗するために、メイを「殺し」「死んだこと」にしてしまう。「何でわたしが死ななあかんねん」。ここまで、メイとともに身寄りのなくなった貫太郎の親代わりの存在だった仁吉は、この時おそらく意識しないままにメイや貫太郎と敵対する位置に回ることとなる。芝居とは言え、メイを「なくなる」者にする力に加担してしまったのだ。だから、メイや貫太郎は、仁吉の芝居を屋根の上から「あほくさ」と軽蔑するほかはない。そして、いちむらが言うように、結局そのまま「女や子どもは追い出される」のである。

 だが、本作は一方で、「男中心のロマン主義的な連帯」も、成り立たないことを描いてはいないか。本作の男たちの「釜」をめぐる闘争は、真剣なものに違いない。だが、それらはどこか滑稽に見える。いや、明らかに監督は滑稽に描いている。そこには真剣で大真面目な闘争を、あたかも花田清輝が、ルネ・クレールの『百万』や『イタリアのムギワラ帽子』に見出したような「ファルス」として描こうとする精神がある。

それらの作品では、登場人物一同が、なくなった富くじの札や、なくなったムギワラ帽子のあとを追っかけながら、まるで赤玉や白玉のように、ころがったり、ぶつかったり、はねかえったりするのである(「ファルスはどこへいったか」)。

 この「富くじの札」や「ムギワラ帽子」が、本作では「釜」になる。ファルスといっても、花田はそれを、いわゆる「笑い」というより、「世界と世界、国家と国家、人間と人間とが、たえずころがったり、ぶつかったり、はねかえったりしながら、赤玉と白玉のように運動しつづけている、とみる精神」と捉えた。それは、誰もが「変りばえのしない赤玉や白玉の一つにすぎない」と見なすような「非情な精神」だ。

 「釜合戦」の渦中にある人物たちを、赤玉や白玉のように描くこと。これはドキュメンタリーではできない。ドキュメンタリーを撮ってきたこの監督が、今回あえて劇映画を選択したのは、釜ヶ崎の「政治」を、ファルス=非情な精神でもって描こうとする思いからではないか。釜ヶ崎の内側に入り込み、場とともにあろうとする監督もまた、「男中心のロマン主義的な連帯が、いかに足下をすくわれてしまう」かを、いやというほど見てきたのではなかったか。

 なくなった釜足組の杯としての釜が貫太郎のランドセルとなって、彼のスース―していた背中を覆い、これまたなくなった炊き出しの大釜からメイと貫太郎が顔をのぞかせ、「釜、なくなってしもたな」と言うのは、男たちの「釜合戦」への最大の皮肉だろう。やはり女と子供は、男たちの「釜合戦」における象徴としての「釜」を、飯を食うための釜として認めていないのだ。象徴としての「釜」は、漢字が似ているように、高騰して「金」になる。彼らは釜=貨幣をめぐって合戦しているだけだ。それは所詮象徴闘争にすぎない。メイの皮肉はそう喝破しているように見える。

 これはファルスではなくサチールの精神といえようが、花田も言うように、「ファルスの精神に裏うちされていればこそ、サチールの精神もまた精彩をはなつ」というものだ。本作はそのように、ファルスとサチールが一体となった視線を、釜ヶ崎に注いでいる。

中島一夫