誰もがそれを知っている(アスガー・ファルハディ)

  シェイクスピアハムレットは「時間の蝶番が外れてしまった」と言った。そして時間は発狂したように、それまで整序されてきた記憶や歴史がほどけ、亡霊が現れ出た。

今回イランからスペインへと舞台を移したファルハディは、スペインの小さな村とそこに住むある一家の「時間の蝶番を外」してみせる。

 

 冒頭から兆候はあった。村の中心たる教会の時計台の裏側が映し出され、この村の時を束ね刻んできた時計の歯車が、年季の入った音をたてている。

普段は隠されている時計台の内側。それは、この村の記憶や歴史の暗部の象徴だ。「誰もがそれを知っている」ものの、決して明るみに出てはならない秘密だ。

 

 物語は、一家の結婚式で村人総出のどんちゃん騒ぎ、一同泥酔のなか主人公「ラウラ」(ペネロペ・クルス)の娘が誘拐されるという事件が発生する。どうやら事件は、一家の秘密に関わっているようだ。だが、その秘密が、事件によって暴かれていくという程度なら、何もファルハディが撮るまでもなかっただろう。

 

 この監督ならではと思わせるのは、一家がお互いに疑心暗鬼に陥っていく要因に、土地をめぐる時間=記憶が横たわっていることだ。ラウラの一家は村の大地主であったが、父が賭け事に負け、ずいぶん昔に手放している。にもかかわらず、今もなお父はそれらが一家の土地であり、人々に不当に奪われたと思っているのだ。ラカン風に言えば、村人たちに、己の享楽が盗まれていると思い込んでいる人物なのである。

 

 その最たるが、ペネロペ・クルスの実際の夫でもあるハビエル・バルデム演じる「パコ」だろう。事件解決に向けて、ラウラを支えようと奔走するパコに、父は言い放つ。「一体何様だ。自分の家でもないのに、家族のように出入りしている。勘違いするな。お前は使用人の息子だ」。長年、胸に秘めてきた父の本音=「時計」の内側だろう。

 

 お前は使用人家族にすぎなかったのに、不当に土地を掠め取り、勝手にぶどう園にしてしまった挙句、今やワイナリーを営んで荒稼ぎしている。だが、その土地が、もともとうちのものである以上、「お前は村の誰よりも、わしに恩があるのだ」と。

 

 まるで父は、犯人から要求された身代金は、パコが払うべきだと言わんばかりだ。まだ、地主/使用人、村の中心/周縁という半ば封建的な関係性が存在し、両者に明確に一線が引かれていたあの日に時計を戻すように。結婚式でさかんに歌われていた「あの日に戻りたい、もう一度」とは、父の思い=封建制のことではないか。

 

 過去作で、イランにおける西洋=世俗化/イスラーム=伝統という時間のズレとそこから生まれる階級的な対立を、ずっと描いてきたこの監督は、今回スペインの小さな村を舞台に、大土地所有の封建的な関係の残存という、資本主義のより普遍的なテーマに移行したように思える。問題は、資本主義になって封建制の「主人」が退陣したことは、「主と奴」という人間同士の関係が、商品(物)同士の関係へと置換されたにすぎないことだ。

 

だからこそ、封建制から資本主義への移行をマルクスがどう捉えたかという点に、症候の発見を求めなければならないのだ。市民社会の確立によって、支配と隷属の関係は抑圧される。形式上は、自由な主体どうしの人間関係はいっさいの物神性から解放されている。だが抑圧された真実――すなわち支配と隷属がいまだにあること――は症候となってあらわれ、平等や自由などのイデオロギー的外観を突き崩す。この症候、すなわち社会関係の真実があらわれる点が、まさしく「物どうしの社会関係」なのである。(ジジェクイデオロギーの崇高な対象』)

 

 父は、大土地所有者として、過去の「人間どうしの」主従関係の物神性に、いまだ呪縛されている人物である。土地は、すでに「商品」として村人たちに売却されているのだから、パコをはじめ、土地を買った村人たちと父との間に主従関係はもはや存在しないはずだ。

 

 だが、本作のテーマは、主従関係は「抑圧された真実」として「物どうしの関係」に転移されているだけで、「症候」として必ず残存しているということである。それは、この村の時間を刻んできた「時計」の、隠された裏側に張り付いている「真実」なのだ。亡霊のごとく。

 

 だから、結局パコが身代金を支払うハメになるのは、ストーリー上の要因をこえて、本作の構造的な必然だとさえいえる。共同経営者もいる大規模なパコのぶどう園には、いまや多くの出稼ぎ労働者が、村の外から移民のごとくやってきている。村人たちは、パコの農園で重労働する気はない(そういう場面がある)にもかかわらず、彼らにとって、出稼ぎ労働者たちは、村の「物」を不当に村の外へと盗み出しているようにしか見えないだろう。

 

 パコの農園から獲れるぶどうと、それから醸造されるワインという商品は、もともと村の土地の恵みではないのか。それを掠め取り、合法的に外へと持ち出しているパコは、村の「敵」ではないか――。これが、かつての土地所有者である父とその家族、そして村のシンボルたる教会に集う村人たちの「誰もが知っている」「それ」の正体である。

 

 映画の前半で、パコが右手にぶどう、左手にワインを持ち、「両手の間に何がある?」と問いかける場面がある。「それは時間だ」。

 

 この時の彼は、この後、まさかその「時間」に復讐されるとは思いもよらなかっただろう。この両手の間には、封建制から資本主義への移行の「時間」が存在している。その「時間の蝶番」が外れたとき、近代の市民社会における自由や平等という「イデオロギー的外観」が、その裏側に何を隠してきたのかが一気に暴かれるのである。

 

中島一夫