ディア・ドクター(西川美和)

 超満員。立ち見すら入り切れない。こんなに混んでいる映画館も久々だ。
 各種映画賞を受賞した秀作『ゆれる』の西川美和監督の新作だというだけでなく、過疎村の医療問題というテーマが、高い年齢層の観客にも迎えられているのだろう。

 だが、作品のテーマは、本当にそこにあるのだろうか。確かに、作品の構想は、四国の限界集落で病院に通えないお年寄りたちについて書かれた新聞記事から得られたようだ。しかし、それにしては、過疎村の人々がユーモラスで滑稽に描かれ過ぎてはいないか(例えば、逝ったと思われた老人が、のどに詰まらせた寿司を吐き出して蘇生するといったシーン)。そもそも、医療問題の映画で誰一人死なないというのは、いったいどうしたことか。問題の深刻さを訴えるために、人の死によって泣かせるシーンがひとつぐらいあってもよさそうなものだろう。

 つまり、作品のテーマはそこにはないということだ。監督は、ごく単純に「嘘をつく男を描きたかった」と述べている。だが、より正確にいえば、本当は医者でない「伊野」(笑福亭鶴瓶)を、医者として村人に信用させ、受け入れさせていく「もの」は、嘘とは次元の違うものだというべきだろう。

 それは、脱ぎ捨てられる伊野の白衣に象徴される。「裸の王様」のように、たとえ王が裸でも、臣下が全員そのように見なせば、王は王となり得る。いわゆる「反省規定」(ヘーゲル)というやつだ。同様に、伊野が嘘をついていて、たとえ白衣の下が「裸」であったとしても、村人の医者を熱望する心がやまないかぎり、それは決してなくならない。

 精神分析的に言えば、それは、この村の象徴界を形成しているが、実体としては名指せない「穴」のようなものである(患者である八千草薫の、もう閉じることのない胃の(伊野?)「穴」と重ね合わされている)。したがって、それは刑事に捕らえられるような代物ではない。そうした実体のない「穴」を表現するうえで、実体のつかみづらい表情を浮かべる鶴瓶を主役に起用した監督の意図は、分かり過ぎるほど伝わってきたし、実際、鶴瓶の演技も見事にそれに応えていたと思う。

 だが、この種の見かたは、言葉は違えど、結局、ラスト30分で刑事の口から語られることの域を出るものではなく、また思想や精神分析の枠にきれいに収まってしまうものだ。新作が、前作に比べて、分かりやすく静的で、どうも行儀のよい印象を拭いきれない理由もここにある。かといって、今さら「人間がよく描けている」などという言葉は、この監督に対して失礼というものだろう。

 むしろ、私が強く感じたのは、伊野が決して「嘘をつけない男」だということである。若い研修医「相馬」(瑛太)とのやりとりにそれはよく表れている。「大学病院の患者はクレームばかりだけど、この村の人々は医者に感謝してくれるから非常にやりがいがある」という相馬に対して、伊野は必死の形相で「自分は次から次へとやってくる鉄砲を打ち返してきただけだ」と応じる。相馬には、自分は感謝されるべきことを相手に施しているのだという「自負」があるが、伊野にはそんな余裕はみじんもない。両者の差異は、医者の資格の有無からくるものだけではないだろう。伊野は、村人たちの要求を、自らに打ち込まれる「銃弾」のごとく感じてしまう男であり、それは都会の患者の消費者主義的なクレームと本質的には何らかわりはない。彼は、嘘をつく暇もなく、他者との関係が剥き出しになった「戦場」をくぐってきたのだ。伊野にとって村人とは、いや他者とは、喫茶店でふいに後ろへ引っくり返る、あの医薬品セールスマン(香川照之)のように(ハル・ハートリーの『トラスト・ミー』を思い出させる)、助けを当てにして全体重でもたれかかっては、際限無く頼ってくる存在なのである。伊野は、否応なく、最初にもたれかかられてしまったのだ。

 そんななか、唯一「なあんにも」(この言葉はキーワードのように繰り返される)伊野に求めなかったのが、八千草薫だ。彼女との出会いによって、やっと伊野は解放されたのである。失踪していた伊野は、ラストで再び彼女の前に現れる。すでに医者の道を照らし出す父のペンライトを失ってしまった伊野が、医者として現れたはずはない。おそらくは、落語が大好きな彼女のために、そして駄目になったカセットテープの代わりに、生の落語を聞かせに、生の「鶴瓶」がやってきたに違いないのだ。

中島一夫