浪漫者たち(田中千世子)

 日本浪漫派や保田與重郎がテーマの映画と聞いて、いったいどんな映像なのか、期待と不安を抱えて上映終了間際に観たが、果たして不安の方が的中した。

 演劇界のホープ、伊勢谷能宣(燐光群)演じる主人公の青年が、役者としての基礎固めに能を習い、師匠の梅若が舞っていた「三輪」にまつわる伝説に心ひかれる。そこで、大和・桜井を旅するが、途中出会った女性研究者を通じて、日本浪漫派と保田與重郎の世界にいざなわれることとなる――。

 おそらくは、作中何度も「ゆとり世代」と揶揄されるほど無教養の主人公が、意味が分からないながらも保田と日本浪漫派の精神に惹かれていき、それらを通じて教養や文化に目覚めていくさまを描きたかったのだろう。だが、あまりに説明的なセリフや、分かりやす過ぎる二項対立(西洋/日本、現実/夢、など)の多用など、作品を覆う想像力が陳腐で、観客を引きつける力に乏しかった。しかも、ここには、むしろ現在の若者に顕著な日本回帰の欲望(例えば「神社仏閣マニア」など)を捉えようとする意識すら見られない。

 さらに悪いことに、映画は、冒頭とラストにおいて、これ見よがしに三輪山と麓の田園地帯の「まほろば」の風景を映しだし、その画は、まるで作品の説得力不足をすべて包み込み、帳消しにしてしまおうとするかのようなのだ。雰囲気とイメージだけを押しつけられるようで、不快感すら覚えた。

 そもそも、保田を、教養の体現者として(のみ)捉えることには無理がある。それは、保田の戦略的な「イロニー」を、余りにも「イロニー」抜きで真に受けすぎというものだろう。むしろ、保田の強度は、教養主義的なものからの切断をはかろうとしたところにあったはずだ。もはや、教養によって古典という「故郷」には戻れないという、「故郷喪失」の感情がベースにあったからこそ(あるいは、「ベース=底」がなかったというべきか)、保田の古典論は、人々の虚無感に訴えたのではなかったか。

 もとより、作品でも、主人公は一直線に「故郷=大和」を目指し、たどり着けるわけではない。この国の「故郷喪失者」の元祖と目される萩原朔太郎、その詩「ぎたる弾くひと」をも彷彿とさせる、道化的なギター紳士(佐野史郎)は、仕舞を奉納する主人公を挑発しては翻弄する。また、同世代の者と読書会を催しても、誰一人保田を読んで来はしない。こうして、「故郷」を探し求める主人公の道行きは、そのたびごとにさんざんはぐらかされるのである。だが、やはり全体として、主人公の表情や姿勢は、余りにも生真面目かつ求道的で、演じる伊勢谷の役者然とした身体性も含めて、とても保田的イロニーの入り込む余地はないように感じさせてしまう。

 監督の田中千世子は、カンヌやヴェネチア映画祭映画批評家連盟賞の審査委員をつとめた経験ももつ映画評論家で、確かパゾリーニの研究などもしていたはずだ。私などは、「まっとうな左翼唯物論者」(浅田彰)とも称されるパゾリーニをやっていた人が、どうして臆面もなく三島(前作は『みやび 三島由紀夫』)や保田に向かえるのか、正直よく分からないのだが、それだけパゾリーニも三島も保田も、左右の振幅が激しく、どの側面を捉えるのかによって、大きくその顔を変えるということか。

 それにしても、映画評論家で旧文部官僚の寺脇研が、この作品のチラシで、「人間は〈教養〉を追究する」もので、その「営み」は「尊い」ものだ、と賛辞を送っていることには、さすがに苦笑を禁じ得なかった。誰が依頼したのか知らないが、「ゆとり教育」を導入した張本人にこの映画のコメントを求めるのは、何かの冗談なのか、それともイヤミなのか。いずれにしても、「教養は尊い」という寺脇の言葉以上にイロニカルなものもないだろう。

中島一夫