ポピュリストの嘘と猥褻 その3

 イロニーは、その主張がそれとは別のことを意味する「確信」の「共有」をもってしか機能しない。だが、保田が、そのイロニーの命綱である「確信」という審級をも破棄してしまったとき、「保田のイロニーははたしてイロニーとして機能しうるのか?」(『近代のはずみ、ひずみ』)。

 

 このイロニーのリミットとしてのロマン的イロニーは、例の「戴冠詩人の御一人者」(一九三八年)に至り、ついに「自然=現人神」を砦としてイロニーの崩壊を防衛する方へと引き返していくほかはない。転向といってよいだろう。だが、「近代に生まれ落ちたヘルダーリンがその夢想した古代ギリシャ人のごとく健全無垢ではいられなかったと同じに、「嘘」において防衛されなければその自然はそもそもありえない。その「嘘」にこそ当為が内包されており、防衛とはゆえにイロニーの別名にあたる」。

 

 この時、「嘘」は「嘘」であることをやめた。「嘘」だとわかっていたからイロニーたり得たのであって、「嘘」を「自然」として設定してしまえば、もはやそれは「嘘」ではなくなる。にもかかわらず、「嘘=イロニー」たろうとすれば、それはもはや「嘘」という事実の陳述(コンスタティヴ)ではなく、「嘘を自然ならしめよ」、「嘘を真ならしめよ」とする「当為=パフォーマティヴ」という政治なのだ。

 

 ポスト真実=ポスト嘘を思考するなら、この保田のロマン的イロニーに戻って考えるべきである。長濱が言うように、「そこにあっては「主張」の言語がもはや「討論」のものでなく、「確信」のみならず「主張」までその意味を「透明化」せしめ、かくしてその「ことば」は二重に表層的な強度を獲得する」。イロニーのリミットにおいて、「その主張は「討論」を拒絶している」のだ。

 

 ほかならぬこの地点に、中井正一は、保田批判としての「討論の論理=委員会の論理」を差し向けるわけだが、これについては長濱の分析を読まれたい。ここで、改めて注目したいのは、あのアメリカ史上最悪と言われたバイデンとの討論会を待つまでもなく、まさにトランプ=ポピュリストの主張もまた「「討論」を拒絶している」言葉だということだ。それは、批判しても無駄な言葉として存在している。われわれはいま、この批判しても無駄な言葉に悩まされているといってよい。

 

 ユヴァル・クレムニッツァーは、今日ポピュリストが行なっているゲームは、リベラルな政治空間の「代表制の論理」の内部にとどまりながら、代表制の論理ではとらえられない嘘を暴露するので、リベラルはこれを批判することができないという。「右派によって暴露された真実――象徴秩序は暴力的な現実を隠蔽するための聖人ぶった外観に過ぎないことの発覚――は、批判的思考の反イデオロギー的な計略と調和する。だから批判ではこれに対抗できないことをリベラルは思い知るのだ」(『The Emperor’s New Nudity:The Media,the Masses,and Unwritten Law』)。

 

ジジェクはしたがって、ポピュリストの猥褻な〈主〉の暴露は、「リベラルの中立性という錯覚のポリコレ的な暴露」と「お互いに補完しあって、補強し合っている」と主張する。だが、ポピュリストとポリコレは、いかなる意味において補完的なのか。

 

ポリコレという態度の致命的な欠陥を理解するには、ラカン派による〈喜び(pleasure)〉とそのトラウマ的過剰である〈享楽(jouissance)〉との区別を考えざるを得ない。単刀直入に言えば、ポリコレの規則が排除しようとするものは、〈喜び〉ではなくそのトラウマ的次元にある〈享楽〉、喜びと苦痛、欲望と暴力の混合としての〈享楽〉である。(『パンデミック2』)

 

 民主主義的な平等のもとでは、「喜び」を全員が同じように得られなければならないのだから、他者の必要以上の喜びは奪われるべき、となる。だが、上のレベルで喜びを平等に均すのが困難である以上、そのためには、逆に下のレベルで均すべく平等に「禁欲」を強いるほかない。かくして、喜びの平等は反転して、平等な禁欲が命令として発動されてしまうのだ。「楽しめ!」(イベントでもライブでもスポーツでも、今やどこでも「楽しんでいって!」と命令される)には、同時に「だが必要以上には楽しむな!」が含意されているのだ。こうして喜びの平等は、いつしか平等な状態からの「享楽」の「盗み」を暴力的に糾弾するという、嫉妬の爆発を招き寄せてしまうのである。こうして、ポリコレは不可避的に「抑圧」へと転じる。

 

ポリコレはすべての人に欲望の表現を保証する建前になっているが、実際は従来の抑圧よりも圧制的である。ただ、ある非常に強い欲望は、ポリコレの中でも生き残る。それは犯罪行為を探し出したい、あらゆる所で人種差別や性差別の悪魔に嫌疑をかけたい、絶滅させたいという欲望である。この欲望は分厚い規則のネットワークによって保持されていて、この規則の違反こそ本当に禁止されている。

 

 ポリコレは、この「分厚い規則のネットワーク」を前提にしなければ成り立たない。この抑圧的な「規則」を全員一致で受け入れよ、という「マゾヒズム」が機能していなければ、ポリコレは崩壊する。「ポリコレの態度は当然マゾヒズムも受け入れるのだが、厳格に同意にもとづく形でなければならない。はっきりと同意を示さなければ、相手を打つなど許されない」。

 

 では、ごく素朴に問おう。だが、「マゾヒズム」が「同意」されなかったら、どうなるのか。

 

しかし、諸事がごちゃまぜになった場合は、どうするか。求めるものが同意の形にまとまらないグレーゾーンがあったら、どうなるか。たとえば、自分の同意に反して、同意なしに打たれたり辱められたりしたいとしたら、明示的に同意すればすべて台無しになってしまうような状況だとしたら。そして、〈享楽〉がまさにこのグレーゾーンに存在するとしたら……。

 

 ポリコレは、このマゾヒズムが「同意」されなければ機能しない。だが、「喜び」と違って「享楽」とは、常にすでに共有不可能な「グレーゾーン」にしか存在しないやっかいなものなのである。ここで、われわれは、あの(その2で見た)「確信」の「共有=同意」なき、保田のロマン的イロニーへと連れ戻されることになる。

 

 保田のロマン的イロニーが、古典を称揚する「嘘」を、「自然ならしめよ」、「真ならしめよ」というパフォーマティヴな命令=政治であったように、ポリコレの主張もまた、「禁欲」という抑圧的な「規則のネットワーク」を、マゾヒズム的に受け入れよ、同意せよという政治にほかならない。『マゾッホとサド』のドゥルーズを待つまでもなく、マゾヒズムとは相互的な「契約」なのだ。しかるにポリコレは、「契約」を結ばない他者を、他者として応接するのではなく暴力的に糾弾する。このようなポリコレのスタンスが、先に見た保田同様、下手をすると、トランプ=ポピュリスト以上に「「討論」を拒絶している」(長濱)ことは、言うまでもないだろう。ポピュリストとポリコレが、相互補完的であるゆえんである。

 

かくしてポピュリズムと〈政治的公正〉は、ヒステリーと強迫神経症との古典的な区別と重なる二つの相互補完的な嘘の形式となる。ヒステリーのひとは、嘘のかたちを借りて真実を語る(語られた言葉は字義どおりにとれば真実ではないが、この嘘は嘘のかたちを借りて本当の不満を表現している)。それに対し、強迫神経症のひとが主張することは、真実を字義どおり語っているが、それは嘘に奉仕する真実である。〔…〕ポピュリストの反抗は、真正の不満や真正の喪失感を外部の敵のほうにずらしてしまう。それに対し〈政治的公正〉を旨とする左翼は、〈政治的公正〉の要点(言葉における性差別、人種差別をあばくことなど)を利用することで、みずからの倫理的な優位性をあらためて主張し、またそれによって真の社会的、経済的変革を頓挫させる。(ジジェク『絶望する勇気』)

 

 われわれが、いかんともしがたくドレフュス革命以降の「嘘の形式」=「嘘言の構造」(中井正一)の上にいる以上、ロマン的イロニーも、ポピュリズムも、ポリコレも、必ず「嘘」の主張を「真ならしめよ」と、他者に同意の強要を迫る言説たらざるを得ない。つまり、それは「討論」を拒絶した暴力を免れないということだ。

 

 問題は、いかにその一歩手前で「後退」(レーニン)し、寸でのところで身を「はず」ませ(長濱)ることができるか――。まさにクリティカルな現在だが、そこからしか、討論、議論する言葉は奪還されないだろう。

 

中島一夫