「新しい生活様式」について
「新しい生活様式」は、決して「新しい」ものではなく、いわゆる(多文化主義的)「寛容」の完成形態に思える。
ネオリベ以降、われわれは他者と適切な距離を置くべきだとする、「寛容」な社会を求められてきた。あらゆるハラスメントはアウト、もちろん人種的な区別(差別)もアウト、タバコもアウト、アルコールも脂肪分の多い食事もあなたの健康増進のために(すなわち国家の福祉や医療体制に「負担」がかかるので)アウト。
お互いに「寛容」な社会を手に入れるには、さまざまな快楽や欲望が規制され、また禁止されなければならない。オンライン飲み会では、酔ってからんだりからまれたりといったハラスメントは発生しようがない。もしそこで言葉のハラスメントがあれば、それはすべて「記録」されている。だが、それは今にはじまったことではないだろう。
ジジェクは、「寛容」の究極形態を、キルケゴール『愛のわざ』における隣人愛に見た。キルケゴールは、キリスト教徒にとって究極の愛すべき隣人とは、死んでいる隣人だと言った。隣人が、それぞれ特異的な享楽を抹消された、まるで死人のような他者であれば、われわれはすべての他者を「寛容」に愛せる――。すなわち「寛容」とは、他者の享楽に対する「不寛容」にほかならない。パチンコやバーベキューや店を営業していることに対する「自粛警察」は、他者が享楽を放棄しないことへの「不寛容」そのものだろう。「寛容」な社会においては、このような己の享楽を盗まれたことへの「不寛容」な「警察=懲罰」行為は不可避的だ。そして政治は、事態を「戦争」と捉えることで、民衆の享楽(の放棄)を操るだろう。
私にとってそうした享楽の最も明白な一例は、いわゆる総力戦Totalkriegに関する一九四三年のゲッペルスの演説です。スターリングラード敗北後、ゲッペルスはベルリンで総力戦を呼びかけたスピーチの最後をこう結びました――「あますことなく日常生活を捨て、国家総動員を導入せよ」と。〔…〕彼は群衆に、必要ならば一日十六~十八時間働くのも厭わないか? と尋ね、群衆は「イエス!」と答えます。あらゆる劇場と高級レストランを閉鎖することも惜しまないか? と尋ね、そしてまた群衆は「イエス!」と答えるのです。そして群衆にあらゆる快楽を放棄させ、またより困難な過酷さに耐えることを問う、こうした一連の問いかけの後、最後に彼はほとんどカント的(表象不可能な崇高なものを喚起させるという意味でカント的といっているのです)とも言える問いを投げかけるのです――「君たちはどれほど全体的であるかを想像できないほどの総力戦を欲するか?」と。すると狂信的でわれを忘れた声が群衆のなかから聞こえて来るのです――「イエス!イエス!イエス!」と。ここに最も純粋なかたちで政治的なカテゴリーとしての享楽があるのだと思います。〔…〕この禁止命令は、人びとに日常的な快楽を放棄せよと要求しながら、享楽そのものを備給しているのです。そしてこれこそが享楽なのです。(『ジジェク自身によるジジェク』)
現在の事態を「戦争」の比喩で語る言説が、どんなに粗雑なものであれ警戒されなければならないのは、それが快楽の放棄と引き換えに享楽を備給しているからだ。そしてそれは、一見対極に見えるものの、あの「寛容」な社会への誘いと別のものではない。
(中島一夫)