天気の子(新海誠)

 主人公の少年は、離島の核家族に「息苦しさ」を感じて上京しネカフェで生活。

 一方、もう一人の主人公の少女は、天気を左右する力を持つ「巫女」で、さらに王子のようなオーラを放つ美しい顔の小学生の弟と訳アリのアパート二人暮らし。

 この二人がマクドで出会い、警察から(結果的に)奪った拳銃一丁を武器に、国家権力=警察を敵に回して「セカイの形を変える」決断を敢行すること。

 

 では、二人はどのようにセカイを変えたのか。

 それは、人間の力を超えた天とのつながりを切断し、たとえいかんともしがたい天災に見舞われようとも、被災者の鎮魂や癒しを、誰か「一人」の手に委ね押し付けようとしないように、である。

 

 少年は言う。彼女のおかげで「ハレ」ていたことを、いつも彼女が「人柱」になってきたことを、「大人は皆知っているのに!」。

 

 少年の「命の恩人」である「スガ」は、「一人が犠牲になって空が安定するならその方がいい。皆、そう思ってるだろ」というようなことを言う。この時「空=天気」は、お天道様に照らされ続けることで安定する「地=民衆(皆)」という構造全体を指していよう。スガは、この構造全体の安定をはかり続ける官房長官のようでもある。

 

 二人の決断は、そんな構造は「もういい!」ということだ。誰か「一人」を透明な存在として、天上(それは同時に海の底(魚)とも通底している。君臣水魚の交わり?)に犠牲の人柱として差別し続けることで安定するような構造は「もういい」。逆にいえば、セカイは、その「一人」によって蓋をすることで、かろうじて不安定や不透明から免れているのだ。

 

 それを「もういい」と退けることは、したがって「天気の子=天皇の子」から下りるということだ。たとえ手錠をかけられ、逆さまに落下しようとも、またそれによってセカイが滅茶苦茶になり水没しようとも、そのように都会の片隅に疎外された若い二人が手を繋げば「大丈夫」だと「決断」すること。

 

 世界など最初から狂っていたし、東京も昔は水の底だった――。大人たちの寛容さは、例外状況の現在を、反復的な歴史観に回収しようとする。ラストで主人公は、そんな大人たちをきっぱりと否定する。あくまで、自分たちが下した「決断」こそ「セカイの形を変えてしまった」のだ、と。

 

 かつて宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(「農民芸術論綱要」)と言った。対して、今作の主人公は「世界全体」など「もう」どうなっても「いい」、知ったこっちゃない、あくまで大切なのは「個人の幸福」なのだと「決断」する。ネオリベの先端で起こる(かもしれぬ)究極の個人主義? 

 

 誰も特別な「プラスワン」(江藤淳)などではなく、普通に名前をもった単なる「ワン」でしかないこと。そのように「形を変える」ことでセカイは崩壊するかもしれない。その前に大人たちは事態に脅え(現在広がる異常気象へのぼんやりとした不安)、何だかんだと回避しようとするだろう。だが、自分たちは、断固としてそれを「大丈夫」だと肯定しよう――。

 

 果たして、家族を放棄し下層を決定づけられた若者たちが、そのようにセカイを変えることを「決断」する日は来るのだろうか。それとも、それ自体セカイ系の夢想でしかないだろうか。

 

 新海誠は、前作に怒った人たちを「もっと怒らせようと」今作を作ったという。だが、本当に怒らせたかったあて先は、もっと別にあったのではないか。少なくとも、そのような挑発を感じた作品ではある。

 

中島一夫