ポピュリストの嘘と猥褻 その2

 長濱一眞が精緻に跡付けたように、保田もまた、中井が直面した滝川事件に大きな関心を抱いていた。滝川事件という市民社会の衰退に、そこから生起せざるを得なくなる(大衆としての)知識人を、この二人は体現していた、と。その意味で、長濱は、滝川事件をドレフュス革命として捉える。「保田がほぼ一身で体現したと見做しうる日本浪漫派的な知識人像と中井がこれもまたおよそひとりで振る舞うこととなる知識人像とは、「昭和十年前後」のドレフュス革命から生まれたふたりの嬰児なのだ」(以下、基本的に引用は、『近代のはずみ、ひずみ』)。この長濱の描き出す極めてラジカルな保田像は、抗しがたく魅力的である。

 

 保田にとって、事態が滝川事件に至って、なお平然と作動するリベラリズム社会民主主義など、端的に「偽」でしかない。したがって、「保田にとって破壊すべき最たるものは社会民主主義の虚偽にほかならず、つまり市民社会の衰退を招きながらもなおすでに「決定され」ている民主にして独裁の論理の枠内でそれを解消しむしろ糊塗せんと努める以上、そこで為されるあらゆる営為は虚偽を出ない」。そして、この「虚偽に対して闘ふものは嘘以外ない」と言って、明確に「嘘」を「偽」に対峙させ、この「嘘=イロニー」でもって「偽」に抵抗しようとしたのである。

 

「偽」とは物語あるいは解釈による現実の解決のことであり、社会民主主義における漸進的な解決可能性、言い換えるならいまや大いなる真理の潰えた後に残された国家―市民社会のなかでの小さな解釈の積み重ねもしくは暫定的な処理の繰り返し以外に現実を更新上書きし問題を解消することはできず、この終わりが遂に訪れないだろう解決可能性そのものを解決とすることを今後唯一の真理に措定することだ。

 

 一方、「嘘はその無に「原型」つまりは「普遍的な方向」を定め、「偽」がもたれる真理を否定する」のである。要は、「嘘=イロニー」とは、「「偽」が依拠する真理を空洞化して滅ぼす否定」にほかならない。

 

 保田と磁場を共有していた中井もまた、高名な「委員会の論理」(一九三四年)において、「嘘言の構造」を論じた。「内的確信に於て肯定せるものを外的主張で否定をもつて承認を求める場合、或は内的確信に於て否定せるものを外的主張で肯定をもつて承認を求める場合、その何れにもせよそれは嘘言を構成する。しかし、厳密に云はしむれば、何れの言か嘘言ならざると云ひたい程、日常及公的生活は嘘言に充ちてゐる」。

 

 いったい、この「嘘言の構造」においては、何が起こっているのか。「このとき、言表者の「確信」と「主張」とでは肯定/否定された事柄が相反することを、その「主張」の際になにかしらの仕方で受け止めるとすれば、一般的に通称されるイロニーつまり皮肉や反語とも訳されるアイロニーが成立する」。逆にいえば、言表者とその受け手において、こうした事態の「共有」が確認されなければ、イロニーは成立しないわけだ。言い換えれば、この時同時に、イロニーがロマン的イロニーへと変貌していく条件もまた醸成されることになる。

 

だが仮に「主張」されたことは虚偽か否かを決定するためのその前提が相手との共有に至らないどころか言表者においてすら決定不能に陥る場合、だから言表者の意図に反して反語(アイロニー)が通じず、あるいは意図せず反語(アイロニー)として受容された等々の水準をも超えて、浪漫的イロニーへの変貌が始まる。言い換えるなら「主張」だけが表層的に露呈するばかりで、「確信」、したがって反語(アイロニー)においては言表者とその相手がその共有を確認しあうべきメタレベルに蔵されている真の意味ないし規則が、もはや確定できず消失したも同然に至るとき、けれどもその「主張」と「確信」とが等号で結ばれている保証もなく、反する「確信」がどこにもなく、ひたすらに「主張」だけがその裏付けを欠き決定不能のままたゆたうとき、それは起こる。ここにあって「主張」は嘘か真か断定しえず、透明な言語の流通と消費にひとかたならぬ支障を来すこととなるだろう。

 

 例えば保田は、古典を称揚した。それは、近代の故郷喪失を前提にした「嘘」としての「故郷」である。保田にとって、古典は「史料」ではなく(保田に限らず、古典をリアリズムとして読む近代人はあるまい)、「現在と過去との認識論的な距離も敢えて無視して、古典を現代の芸術として感動とともに享受する近代の遠近法的倒錯がそれと知りつつ肯定される」のである。保田は、古典をあえて求めることで、故郷喪失を認めながらも「嘘」としての故郷を言い募る。先に述べたように、その「嘘」が、受け手にも「嘘」として「共有」されることでイロニーが成立する。だが、果たして、その「嘘言の構造」が累進していったとしたらどうか。

 

しかるに保田の浪漫的イロニーはひたすら表層的な「主張」を延々ならべたてることに徹するため、その「主張」にはそれとは別のことを意味する「確信」すなわち「主張」の真偽を決定する絶対不惑の審級が欠如しており、「嘘」と明言しつつあたかも「嘘」でないかに語り継がれる平板な表層ばかりに徹して結語を宙に吊らんとする。

 

 もし、「嘘」が延々と繰り返し「主張」されたとしたらどうか。言表者は自らその「嘘」を信じているのではあるまいかと、受け手は判断せざるを得なくなるだろう。そのことによって、「嘘」を「嘘」として規定していた「確信」という審級が消失してしまうのだ。その結果、長濱の次の決定的な疑問へと逢着する。「その暗示を裏打ちすべき「確信」を破棄した保田のイロニーははたしてイロニーとして機能しうるのか?」。

 

 実際、「嘘=イロニー」が「嘘=イロニー」として機能せず、保田の古典講釈を真に受けた読者も相当数存在した(「いわゆる戦中の「保田体験」世代にもその類の読者が相当数紛れていたのは全集の月報に眼を通すだけで察することができる」)。このように、ひたすら「嘘」を累進していった時、イロニーの機能を担保する「確信」の「共有」が破棄され、イロニーはそれ自体「ロマン的」なものへと変貌せざるを得ない。ロマン的イロニーとは、「嘘=イロニー」のリミットであり墓場なのだ。そこでの「確信」とは、「「確信」を否定したのち生ずる「確信」、言い換えるならファルスとしての「確信」以外にない」。すると、言説は、次のようになろう。

 

それは「主張」に対して肯定も否定も明瞭に意味せず、意味を持たず、もはや内面やメタ言語にもなりえずに、「(ファルスが/として)存在する」そのことでなんかしらを「確信」しているとの無言の陳述――無意味な陳述ならぬ陳述――を忍ばし以て表層にならべられた言語を宙に吊る。

 

 「主張」が、「肯定も否定も明瞭に意味せず、意味を持たず、もはや内面やメタ言語にもなりえ」ないという言葉の羅列――。ここにおいて、保田は、あのポピュリストの「主」と重なってはこないだろうか。いったい、トランプの言葉に「意味」や「内面」を求めたところで何になろう。その猥褻さとは、服を脱ぐ行為が「服」として、仮面を外す行為が「仮面」として機能するという、「ファルス」ならぬ「ファルス」としか言いようがない事態である。

 

 それは、服の下の裸を見せる猥褻ではなく、服や仮面という「嘘」の下に、もはや隠されるべき裸=真実は存在しないことを見せびらかすという猥褻さなのだ。言い換えれば、「嘘」の累進がリミットに至り、内面やメタ言語が機能不全に陥ったという事態である。まさに、われわれはいま、「メタ言語は存在しない」事態を本当に経験している。ここでは、イロニーとして機能せずに空転する古典論をとうとうと述べる保田と、しゃあしゃあと「文字通りの真実」をたれ流すトランプが、裏腹に重なってしまうのである。

 

(続く)