范の犯罪(志賀直哉)

 しばらく映画を見に行く暇がなかったので、学生から質問があった志賀の小説について少し。
 といっても、触れたいのは、作品そのものについてではない。この機会に目を通してみた、『文学界』(7月号)に掲載された座談会「文学的模擬裁判――法の言葉で殺意を語れるか」について、である。

 これは、裁判員制度の導入に合わせて、文芸評論家の伊藤氏貴、元判事の川上拓一、小説家の中村文則が、志賀の「范の犯罪」を素材に模擬裁判を行うという企画なのだが、小説作品をとりあげる以上、必要最低限の歴史性はふまえられねばならないはずである。ところが、座談は、この作品が1913(大正2)年に書かれ、したがって、その直前に起こった1907(明治40)年の刑法改正による、犯罪や法をめぐるパラダイムチェンジを背景としていることなど、まったくの無視なのだ。

 詳細は省くが、旧刑法から新刑法への移行とは、要するに、それまで犯罪は、絶対的な「正義」によって裁かれていたのが、今度は「社会」によって裁かれるようになったということだ(詳しくは、芹沢一也『〈法〉から解放される権力』など参照)。むろん、それは大正デモクラシーによる「(市民)社会」の誕生に即した必然的な「チェンジ」だった。そして、もはや「正義」に則って機械的に犯罪を裁けなくなったために、裁判官の裁量が著しく拡大することにもなる。「范の犯罪」は、裁判官が直接「范」に延々と訊問するというあり得ない設定になっているが、逆にいえば、はからずもそれは、新刑法による裁判官の裁量拡大を示しているともいえよう。

 だから、今回の裁判員制度導入に際して、安易に「范の犯罪」をもってくるべきではない。今回の裁判員制度は、むしろ大正期に登場した「社会」が縮減した現在、「市民」が急激に「国家」の位置にまでせり上がってきてしまった事態を背景としているからだ。「范の犯罪」の時代背景とは、まるであべこべなのである。

 当の座談では、こうしたこと一切が不問に付されたまま、范に対する模擬裁判が能天気なまでに進行する。ここでは、范が中国人であることすら問われない(市民社会の拡大とともに、中国人の、しかも「芸人」が、最終的に無罪となる問題は大きいはずだ)。この座談では、ひたすら、范という一人の人間の殺意と量刑だけが議論されるのである。この座談会は、まさにそのタイトルが示すように、悪い意味で「文学的」な、あまりに「文学的」なものだというほかはない。

 座談を総括するように、川上は言う。「「司法」は近寄り難いもの、難しいもの、プロに任せておけばよいものとして、国民からは遠い存在になってしまっていたわけです。国民主権といいながら、これで良いのか、これを指摘したのが、二〇〇一年六月に公表された「司法制度改革審議会意見書」です」。

 こういう発言には、心底、反発を覚える。あたかも、裁判員制度の発足が、「社会」の機能不全の結果ではなく、国家から国民への思いやりの産物であるかのような口ぶりである。本気で「国民主権」を実現したいのなら、国民に銃や軍隊をも与えてほしいものだ。言うまでもないが、裁判員制度などで国民が「主権者」になることなど、絶対にあり得ない。

中島一夫