精神(想田和弘)

 精神科にカメラを入れ、しかも一切モザイクなし、ナレーションも音楽もなし。監督曰く「虚心坦懐」に患者たちを映し出した映像は、それだけで十分画期的なものだ。とにかく、いろいろと考えさせられる映像だった。

 とはいえ、この作品の宣伝文句――タブーに踏み込んだとか、閉ざされた「カーテン」の向こう側にカメラを向けたとか――のように、殊更にその「侵犯」ぶりを強調するのはどうかと思う。もちろん、立候補者が代表者になっていく選挙運動にカメラを向けた前作の『選挙』からして、この映像作家の関心が、市民社会の境界とその「侵犯」にあることは明らかだ。だが、自らの方法を「観察映画」と呼んでいることからも、この監督が「侵犯」という劇化を頑なに拒んでいることも、また確かだろう。

 それにしても、「観察」されることに対する患者たちの武装解除ぶりには、目を見張るものがある(やはり、大半は出演を断わられたようだが)。これには、山本昌知医師(精神科診療所「こらーる岡山」代表)の患者への接し方が大きいのだろう。「病気ではなく人を看る」、「本人の話に耳を傾ける」、「人薬(ひとぐすり)」をモットーとする山本医師は、かつて精神科病棟の鍵を取り払う運動にも取り組んでいたという。小さな作業所や喫茶店なども併せ持ち、ちょっとした配達業から薬の調合までも患者が行う「こらーる岡山」は、したがって単なる診療所にとどまらない、患者たちが何とか地域で暮らしていけるように模索された、ひとつの「コミューン」なのだ。

 映画は、しかし禁欲的なまでにコミューンの美化を避ける。この場所が、助成金なしではとても立ち行かず、患者たちの生活も、結局は生活保護やヘルパーなしでは成り立たないことを、映画は決して隠さない。山本医師の給料も驚くほど安い。「こらーる岡山」は、そうしたさまざまな犠牲と支えによってかろうじて存在し得ている。まさに、その存在は、何度も画面に映しだされる「みのむし」のようにか弱く、また風が吹けば足場もなく宙に舞うほかはないのだ。

 患者たちもさまざまで、見る者の印象は複雑多様にならざるを得ない。かつて我が子を虐待死させてしまった母親に、一日十八時間勉強し続けた果てに倒れた若者、また始終自分を脅かす声に苦しむ男など、いかんともしがたい困難な症例を伝える一方で、友達に冷たくされたとか、「足が太い」と言われたとか、バンドサークルに入る勇気があるのないのと、そのまま受け取れば「いったいどこまで他人に求めれば気が済むのか」と思わせる言動も、映画には多々収められている。それは、今や患者たちが、疎外されているどころか、むしろ消費者として主体化しているのではないかという疑問を抱かせるほどだ。

 それにしても、山本医師が行っている行為は、果たして本当に「治療」だったのだろうか。患者に語らせ、ひたすらメモを取り、薬を与えては返す(「人薬」という割に、実際にはかなりの薬が投与されている)。それは、よく言われるように、もはや精神医学がリミット(当然このリミットは、前回「范の犯罪」に関連して述べた「近代法」のリミットと連動するものだろう)を迎え、すっかり薬学化、生物学化している現状――大金をとって精神分析を施すという「治療」などやめてしまい、鬱といえばすぐさまプロザックなどの薬を投与する――を映し出しているともいえよう。

 確かに、そこにはもう、患者を精神病棟に閉じ込める「鍵」はない。だが、今度は、ゆるやかに薬学的にコントロールされた患者たちの身体が、そこに横たわってはいなかったか(だが、それ以外に何か有効な方法があるだろうか)。この映画を見る者は、患者たちの「精神」における病の深さよりも、むしろ横になったまま起き上がることもままならない、彼らの「不健康」な「身体」に目を奪われるはずだ。おそらく、この映画は、さまざまな意味において、「精神」というより、「身体」と名指される方がふさわしい。

中島一夫