コングレス未来学会議(アリ・フォルマン)

 人と対面していて、時折、向こうにはこちらが、アニメやゲームのキャラクターのように映っているのではないかと感じることがある。リアリティの感覚の差異、というべきなのか、何か決定的に「線」をまたいでしまった/またがれてしまった、という感触がある。本作の難病の息子「アーロン」の飛ばすカイトが、飛行場の禁止区域をまたいでしまったように。

 大きく分けて、作品の前半は実写、後半はアニメの二部構成である。どちらが現実かフィクションかと言ってもはじまらない。本作では、それらの差異だけが問題なのだ。

 冒頭、「ロビン・ライト」役で登場するロビン・ライト(ここにすでに、本名/役名の差異がある)が、画面正面を向いて涙している。だが、しばらくすると、カメラは少し斜めに角度を変え、その涙がマネジャーのハーヴェイ・カイテルに向けられていたことが分かり、それがカメラの前の演技だという印象をやや和らげることになる。ほんの少しの差異が、リアリティに差異をもたらすのだ。

 今、ロビンは、全身をスキャンし、そのデータをCG化することで、彼女の演技や画像を自由に作りだすことができるという権利をめぐって、映画会社と契約しようとしている。契約が成立すれば、彼女は44歳で女優を引退、以降彼女の映像は「永遠の34歳」となる。では、CG化された「永遠の34歳」の彼女は、アニメとどこが違うのか。このときロビンはすでに、アニメパートの後半へと自ら「線」をまたいでいるのだ。

 それは女優としてのみならず、母親としてのロビンの問題でもあろう。息子のアーロンは、アッシャー症候群という徐々に視聴覚を喪失していく難病で、やがて完全に見えず、また聴こえない状態になる可能性が高い。もし、そうなってしまったら、彼にとっての母は「永遠の34歳」なのだ。

 アーロンは、聴覚テストで、単語Aの発音とBのそれとを、ことごとく聞き間違える。これもアーロンが間違っていると言っても仕方がない。彼にとっての「現実」は、単語Bでしかないからだ。重要なのは、Aを「現実」とする世界と、Bを「現実」とする世界との差異が、ロビンとアーロンの間に横たわっているという事態こそが現実であり、それはいかんともしがたく存在するということだ。

 アーロンは、自分の発音が間違っているのではないかと思う。医者と母が何やらそのようなことを囁き合っている、その唇を読んだからだ。後半のアニメパートでは、永遠の34歳=CG化、アニメ化されたロビンが、そんなアーロンの現実へと「線」をまたいでいったと受け取れるだろう。ラストで振り向くのは、アーロンにもロビンにも見える。

 では、アニメパートで彼女がスピーチを促される「未来学会議」とは何か。それは、会議のスピーチで喝采を受けることが、アニメの世界のリアリティを構成するという事態そのものを意味していよう。現実は「民主主義」的に作りだされるのである。
 
 それは、アーロンによる「読唇」――自らがリアリティから疎外された存在であることを知る――とちょうど対になっている行為だ。医者が言うように、「昔は現実から逃れるために、人は「薬」を使ったが、今は現実を作りだすために「薬」を使う」のである。むろん、この「薬」は映像やアニメでもある。実際、ロビンが契約している映画会社ミラマックスが、現在最も力を入れているのは新薬の開発なのだ。薬=映像=アニメでトリップしている人間がマジョリティを形成すれば、それが「現実」となる。

 これは、監督の生まれたイスラエルの状況そのものともとれるだろう。監督の両親は、ホロコーストを生き延びたポーランド人だという。ナチスに現実を奪われた人々が、イスラエルという新「現実」を作りだす。だが、やがてその新現実が、新たにそこから疎外される人々を生み出し圧迫する。今度はイスラエルナチスのようになる。そういえばロビンは、子供たちから演じ手として「収容所に入れられる人間にも似合うし、それを監視するナチスの人間にも似合う」と言われるのだった。

 そもそも、人間は現実など認識できないのだから、すべてがフィクションだ、フィクションにして現実なのだと嘯く者がいる。フィクションの快楽? 現実から疎外されたことのない、したがって、アーロンのようにすでに聴こえなくなりつつある耳をふさいだことのない、何とも優雅な人間の考えることだ。

 もはやフィクションに快楽など存在しない。そこにあるのは、現実を構成する側に回るか、疎外される側に回るか、その両者を分かつ線だけだ。そして、その線をめぐる戦争と、排除された者が追いやられる収容所が、いかんともしがたくあるという現実である。この監督の前作が、『戦場でワルツを』という、レバノン戦争をめぐるドキュメンタリーだったことを忘れてはならない。

中島一夫