さすらいの女神(ディーバ)たち(マチュー・アマルリック)

 映画の王道たる旅芸人のロードムービーといっても、そこはアマルリックなのだから、一筋縄でいくはずもない。「ニューバーレスク」。17世紀イギリス発祥のキャバレーショー「バーレスク」の進化形。

 中年にさしかかった、お世辞にも美しいとはいえないダブついた肉体たち。アマルリックは、ある時偶然、新聞で彼女らの記事を読み、思わず「え、彼女たちが脱ぐの?」と思ったという。だが、すぐに、「彼女たちのショーは、女性に完璧な肉体を求める現代に対抗する政治的な行為である」と思い返すのだ。この瞬間、映画化しようと思ってずっと温めていた、女性作家コレットの実体験を綴った『ミュージックホールの内幕』の世界とつながった。

 先端に飾りをつけ、豊満な胸をブンブンと振り回す彼女らは、まるでゴージャスな「最終兵器」だ。観客の脳髄を吹き飛ばしては、夜な夜な恍惚感をもたらす「女神」(ディーバ)たち。

 映画は、その迫力のステージを、舞台の袖にいるマネージャーの「ジョアキム」(アマルリック)の目線で追うことで、客席から見える晴れやかな舞台上には表れない、ダンサーたちの人生の陰影を映し出していく。一見、豪快で破天荒な彼女らは、アメリカから連れてこられ、よく知らないフランス周辺部の港町を巡業させられている根なし草であり、故郷喪失者だ。

 そして、それは、仕事も家族も捨て単身アメリカに乗り込んで、この旅芸人の一座を率いるマネージャーに転身したジョアキムも同じだった。彼のふるまいは、デラシネゆえに、自ら言うようにどこか「雌鶏」のようにせわしなく、まるで「道化」のようにしか見えない。派手に振舞ったかと思うと、急にふさぎこむ。このあたりの空回り具合は、アマルリックの真骨頂だろう。ジョアキムがつけた、チャップリンを彷彿とさせる口髭は道化の象徴だ。

 一座の「保護者」として振舞う彼は、ダンサーの睡眠時間をコントロールしたり、列車の切符やホテルの手配などを一手に仕切るが、なかなか最終目的地のパリに向かおうとしないジョアキムに、一座は不信感を抱く。舞台の演出をつけようとする彼を、ダンサーたちは「これは私たちのステージよ!」と突き放す。

 もちろん、ジョアキムも、一刻も早くパリに乗り込み、これ見よがしに凱旋を果たしたいのはやまやまなのだが、かつてTV業界を干されたという彼の過去が公演の実現を阻む。ダンサーもジョアキムもともにいらだちが募っていき、相互の亀裂は広がる一方だ。中でも、「ミミ」は、ショーが終わるたびにふさぎこみ、精神的に不安定な日々が続く。

 だからこそ、だろう。あるとき、ミミとジョアキムの間に、お互いのメランコリーを共振させる僥倖が訪れる。その一瞬を、スーパーのレジでのあり得ない出来事!(最高に笑えるシーン)の共有と、その後車の運転を交代し、二人の立場を入れ替えさせることだけで表現したアマルリックの手腕は見事としか言いようがない。

 「保護者」から降りること。呼吸困難に陥るほど追いつめられていたジョアキムが、ミミの運転の横で安らぎを取り戻し、まるで少年のようにヨーグルトのふたの裏をなめるシーンは、感動を強要してくる画面ではないぶん、かえってふいをつかれて忘れがたい印象を残す。ミミもまた、久し振りの運転にすっかり興奮し、活気を取り戻したようだ。

 最後、廃墟と化したホテルに着いた一行に、どのような時間が待っているかは語らずにおこう。人生は旅であり、現代人とは多かれ少なかれ故郷喪失者であり、人と人との出会い、その一瞬一瞬はショータイムだなどという言葉は、この廃墟のホテルでの交感、交歓を目にした後では、もはや野暮にしか聞こえないだろうから。

中島一夫