恋の罪(園子温)

 作中、何度も引用される田村隆一の詩「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」が告げるように、誰しも言葉以前、意味以前の世界に戻れたらと夢想する。そこには、言葉という表層的な記号では捉えられない、何か深く確かなものがあるはずだと。

 だが、もちろん、その世界は、これまた作品全体を象徴的に支えるカフカの「城」のごとく、決してたどり着くことはできない。人は、その周囲を、ぐるぐる回るように生きていくほかはない。

 だが、そもそも、言葉を手掛かりにしてしか、その言葉以前の世界を夢見ることもできない。すると、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という夢見の言葉は、言葉以前に戻りたいなどと幻惑させる「言葉」そのものへの呪いと化すほかはない。

 同じように、これは、「映画なんかおぼえるんじゃなかった」と映画を呪っている監督による作品であり、「恋やセックスなんかおぼえるんじゃなかった」と「恋の罪」を呪っている人物たちの物語だ。

 冒頭で全裸の激しいセックスシーンを演じている水野美紀が、ラストでは両手にゴミ袋を持ちながら回収車を追いかけても追いつけず、その果てに渋谷・「円」山町のラブホテル街に迷い込み、作品において象徴的にそびえる「城=廃墟」の「門前」に立つ。冒頭の男から「今どこにいるんだ?」と電話がかかる。「よくわからない」と彼女。

 言葉もセックスも、実際の行為の渦中から一歩身を引き、それを対象化して考えはじめた途端、何だか「よくわからない」ものと化す。また水野は、この「城」を拠点に展開された一連の不可思議な事件(東電OL事件)を追ってきた女性刑事なのだから、この「よくわからない」は、当然事件そのものについての言葉でもあろう。作品は、水野を「掟の門」に立たせることで、たとえ犯人が突き止められたとしても、その本質は「よくわからない」迷宮入りの事件のごとくこの事件を提示する。

 主要人物を演じる三人の女優(水野美紀冨樫真神楽坂恵)のヌードが惜しみなく繰り広げられながら、また女を描こう描こうとしているように見えながらも、この作品が一向に「女」の映画に見えないのは、作品全体の構造が、田村隆一カフカの思弁的、観念的な言葉に規定されているからだ。作中で田村の詩が読まれるたびに、また「城」が云々されるたびに、作品は女の肉体を遠く離れていく。

 たとえば、人気作家の妻「いずみ」(神楽坂恵)は、昼は大学助教授で夜は売春婦の「美津子」(冨樫真)に、「お前は私のところまで堕ちてこい!」とオルグされ、昼のブルジョア的な主婦生活から、夜の売春婦へと堕ちていく。いずみは美津子から田村の詩を習い、カフカの「城」の話が取り交わされるのもこの二人の間でのことだ。そして美津子は、空虚な言葉や「城」に確かな実体を与えるためには、しっかり「堕ちる」必要があると説く。

 だが、「ただでやらせるな!」と美津子の説く性や肉体の商品化が、「堕ちる」ことであった時代はとうに終わっているのではないか。むしろ、性や肉体を商品化してはいけないというブルジョア市民社会的な抑圧は、資本主義の浸透によってすっかりとけており、だからこそ、以前「援交少女」にラジカルな「革命戦士」を見た社会学者は、その後自己批判し転向したのだ。

 かつて柄谷行人が、「近代文学の終り」を宣告したのは、そうした事態を前にしてのことだった。柄谷は、近代文学的な北村透谷の「恋愛」が抑圧してきた、『金色夜叉』や『好色一代女』の世界――当たり前のように性や肉体を商品化され、芸者が昼も夜もなく闊歩する世界――が、現在抑圧をとかれ表面化してきていると言った。現代は、近代文学的=市民社会的な抑圧からの解放=堕落どころか、むしろその抑圧がきかなくなった時代と捉えた方が、はるかにリアリティがあるはずだ。

 このように、『恋の罪』は、田村隆一カフカ近代文学的な言葉やイメージ(彼らが近代文学的な詩人や作家だという意味ではない)に依拠することで、「近代文学の終り」を拒絶し、「恋の罪」という甘美なノスタルジーをうたう。作中に降りしきる雨は、その詩的な表現だ。だが、まだわれわれに、その種のポエジーに浸る余裕は、果たして残されているだろうか。

中島一夫