A Vital Sign ただちに犬(劇団どくんご)

 外山恒一氏の告知にひかれ、噂の「劇団どくんご」の公演を見に行った。
 大阪城公園内、「太陽の広場」の片隅に建てられたテント小屋。いかにも旅芸人の一座といった風情だ。振り返ればライトアップされた大阪城、見上げれば夜空に煌々と輝く月というシチュエーションが気分を盛り上げる。

 中に入ると、舞台上は祭の縁日のようなセットで、所狭しとガジェットが並べられ、天井には万国旗が並ぶ。サーカス小屋に迷い込んだような感覚。「お店」と書かれた看板はマンガチックで、どこか無垢で幼稚なイメージだ。その印象は、観客が入ってくるたびに「いらっしゃいませー」と声をかけながら、舞台上ですごろくに興じる、二人の女優の格好や立ち居振る舞いからも感じられる。

 その他、出演者全員で客席の案内からセット交換まですべてを行う。一見して、性も年齢も曖昧でマージナルな存在の俳優陣だが、決して異形という感じではなく、他者性は薄められていて、むしろある種の懐かしさを感じさせる。私は、何となく坂口安吾の「白痴」を思い出していた。

 「白痴」の世界は、「その家には人間と豚と犬と鶏と家鴨が住んでいたが、まったく、住む建物も各々の食物も殆ど変っていやしない」という、人間と家畜がフラットに並列化した世界だが、まさに「犬小屋」と呼ばれるこの「どくんご」の空間や芝居にも同じような印象を受けた。

 ストーリー性を排した今回の芝居の核にあるのは、巨大な犬のぬいぐるみを殺人事件の被害者に見立てるという、荒唐無稽な推理劇だ。無言の「犬」をめぐる侃侃諤々はそれだけで笑える。だが、俳優陣全員が次々に事象を上書きし展開していく推理は、ひとたび結論が口にされたかと思うと、たちまち他の誰かが否定し覆され、また一から証言の積み直し。これがひたすら繰り返されるのだ。ここでは誰ひとり超越的ポジションをとり得ず、最終的な結論を口にし得ない。

 最初は御簾の向こうで、ひそひそとなされていたそのやり取りは、その後御簾が外され堂々と公開され、やがては舞台の奥まで取り払われて、外部と地続きに開放された空間を奥行いっぱいに使って見せていく。彼らの推理の掛け合いは、犯人どころかもはや被害者すら誰か判然としなくなっていき、最後は言語すら不明瞭、ついに事態は舞台を超えて客席全体を包摂する――見事にアナログな仕掛け!に魅了されるはずだ――ことで、すでに内と外との区別がなくなった小屋全体を巻き込んでいくのだ。

 ここでは観客も含めて、誰でも犯人であり、誰でも被害者であり得る。小屋に入った瞬間、誰でも「ただちに犬」になる。すべてが並列化された空間は、超越性が無化し、互いが互いを映し出すほかない鏡地獄なのだ(芝居内でなされる音当てゲームは、「犬」も含めた出演者すべてが、入れ替わり立ち替わり参加して進行する)。

 御簾の向こうで殺されたのは高貴な者か。だとすると、これは「大逆」事件のパロディととれなくもない(高貴な者の超越性が無化した鏡地獄)。今回のツアーは、水俣水俣病センター下空地から出発しているが、これもその廃液が水俣病の原因とされた当時のチッソ社長が、現皇太子妃の小和田雅子と縁戚にある小和田豊だったことを考えると何やら意味深長ではないか。

 安吾の「ふるさと」がもはや回帰できない場所であるのと同様、われわれの「自然」も、公害や放射能ですでに回復不可能なまでに毀損されている。役者たちの「無垢」が、どこかノスタルジーを感じさせながら、同時にあの「白痴」の女のように、われわれをどこか冷たく突き放すのもそのためだろう。

 それでいて、瞬発的でリズミカルな身体の運きから喚起されるシンプルな言葉を、これでもかとばかりに反復する「ギャグ」めいた手法は、小さな子供さえ笑わせる(子ども連れも目立った)。

 一人一人の役者のスキルが高く、もちろん無垢も演じられたものだろうが、それを感じさせずに、役者たちの生身に見せてしまう。実際、芝居が終わる頃には、はじめ奇異にすら見えていた役者たちに、帰りがたい親しみと好感を抱くようになっているのだ。


劇団どくんご
http://www.dokungo.com/
  
中島一夫