おみおくりの作法(ウベルト・パゾリーニ)

 ロンドン市ケニントン地区の民生係であるジョン・メイは、孤独死した人々を弔うのが仕事だ。故人の遺品や写真を手ががりに、その人生を思い浮かべては弔辞をしたため、ふさわしいBGMを用意して宗教に沿った葬儀を執り行う。遺族や知人を訪ねて訃報を届け、できれば葬儀に参列してもらえるよう説得して回る。

 どこからどう見ても、ジョン・メイの誠実で几帳面な性格や仕事ぶりがもたらすハートフルな作品だ。だが、これが闘いの映画でもあることも見逃せないだろう。そのように作品を見れば、原題「STILL LIFE」は「静かな生(活)」であるとともに、「いまだなお生きている」とも読めてくる。では、何が「まだ生きている」のか。

 ジョン・メイの仕事は、一見して分かるように、ともすると時間と経費がかかり過ぎるので、ある日彼はいきなり肩たたきにあってしまう。上司は言う。「葬儀は死者ではなく生者のためのもの。参列者がいない葬儀など必要ない。死者に「思い」はないのだから」。

 以降、ジョン・メイの「おみおくりの作法」は、単なる「作法」を超えて、役所の合理化=リストラに対する「静かな」抵抗になっていく。死者は「まだ生きている」のだとばかりに。そして、このとき独り身のジョン・メイもまた、「首切り」によって「孤独死」した「死者」の側に立たされたのだ。

 ラストでは、彼に「思い」を見出された孤独な死者たちが一堂に会する。彼らは霊か、はたまた場面自体が夢なのか。一つ確かなのは、このとき彼らは、単にジョン・メイに贈与された「おみおくりの作法」をお返しするためだけでなく、リストラに抗して目には見えない死者の思いに思いを馳せ、反合理化闘争を孤独に闘ったジョン・メイの精神を称えて集まったのだということだ。いわば、今ここには、「無為の共同体」(ナンシー)、「明かしえぬ共同体」(ブランショ)が立ちあがっているのである。

 そして、そのイメージは、映画そのものとも見なせよう。かつて、「映画は共産主義に似ている」と言った批評家がいたが、まさにその死者たちは、孤独で匿名の、失うべきものは何もない者たちの、共同体ならぬ共同体である。ナンシーやブランショが見出した共同体とは、何より、このような死に行く者たちとの不可能な共同体ではなかったか。

「死にゆく者」の手をとりながら「私」が彼と続ける無言の対話、私はそれを、ただ彼が死ぬのを助けるためにのみ続けるのではない。彼のもっとも本来的な可能性でもあるだろうこの孤独な出来事、そしてそれが彼の所有の機能を根底から奪い去ってゆく限りでひとと分かち合うことのできない彼固有の所有に属するとも思われる、この出来事の孤独を分かち合うために、私は彼と対話を続けるのだ。…きみは死んでゆく。…きみはなお、ここにいる。(ブランショ『明かしえぬ共同体』)

 言うまでもなく、スクリーン上の人間はすべて「死者」である。映画を見るとは、匿名の観客の孤独とその死者の孤独とが、「無言の対話」を無限に続ける行為にほかならない。このような「私」と「彼=きみ」だけが、「きみをも私をも超越したこの贈り物」を「受けと」ることができる。そしてその「贈り物」とは、「いまだなお生きている」共産主義の夢ではないだろうか。

中島一夫