現代思想の使命

 浅田彰中沢新一東浩紀の鼎談「現代思想の使命」(『新潮』4月号)を面白く読んだ。
 マルクス主義毛沢東主義が「知識人の阿片」(レイモン・アロン)として退けられたうえで、今こそドストエフスキーだ(東)、いやニーチェ(的な「末人」)だ(浅田)、あるいは国民戦線が急速に支持を伸ばすフランスで、ひょっとするとマリーヌ・ル・ペンが大統領になるかもしれない(中沢)、などと語られているのを見ると、議論が1989年、1995年、2011年をめぐるものであるにもかかわらず、どうしても1930年代の「シェストフ受容」(平野謙)のことを考えてしまう。

 レオ・シェストフ『悲劇の哲学』は、まさにドストエフスキーニーチェを論じたもので、当時「シェストフ的不安」(三木清)なる現象を巻き起こした。今回の鼎談では、この「不安」が、「美/崇高」や「不気味なもの」といった言葉で語られてはいるものの、概ねいかにしてこの「不安」と付き合うかという話だったように思う。

 むろん、当時は一方に、マルクス主義と党が存在していたので、「シェストフ受容」は「転向」へと帰結した。言い換えれば、現在は「転向」なき(あるいはそれが不可視となった)1930年代だということだろう。
 したがって、ここで展開された「思想」が、「政治」(や「実生活」、「行動」など)と対立項を形成し、これまた当時のように論争となることもない。今や後者は、前者の表象=代表の外にある。この鼎談におけるシャルリ・エブドやISに対するスタンスは、それを告げているように思える。

中島一夫