イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密(モルテン・ティルドゥム)

 ナチス・ドイツの暗号=エニグマを解読した、イギリスの数学者アラン・チューリングの実話に基づく物語。「イミテーションゲーム」とは、エニグマを解読したことをドイツに悟られないようにするために、暗号を解読した瞬間から、戦争が相手をかく乱するゲームと化していくこと。「嘘とわかっている相手をだますことはできない」からだ。

 「私は人間か、マシンか。戦争の英雄か、犯罪者か」。戦争中の彼についての情報が不明であることを不審に思い尋問にかける警察に、チューリングベネディクト・カンバーバッチ)は、事の一部始終を説明し終えた後、最後にこう相手に質問し返す。有名なチューリングテストというやつだ。

 作品を見るかぎり、答えは「両方正解」だろう。彼は、暗号を解くまでは、まさに「マシン」のように仕事をし、選ばれし「英雄」のごとく振る舞うが、解読した後に、「人間」くさい「犯罪者」になっていくからだ。

 暗号が解読済みであることを相手に悟られないようにするためには、味方をも欺き、その結果、防げるはずの犠牲(民間人も含め)を払うことになる。つまり見殺しにするわけだ(これが、チューリングの功績を、イギリス政府がひた隠しにせねばならなかった理由だろう)。そのとき彼は、「誰が生き残り、誰が死ぬべきか」を決断する主体にならねばならなくなる。決断自体はマシンでも可能かもしれない。だが、決断に悩むのは人間だけだろう。そもそも「自分は人間か、マシンか」という問い自体が、極めて人間的なものである。

 嘘をつけるのも人間だけだ。マシンは解読できないことはあっても、「嘘をつくこと」はしない。チューリングは、戦争に勝利するために、暗号を解読したことを軍に対しても秘密にし、「国家の最高レベルで嘘をつく」よう、MI6(秘密情報部)に持ちかける。そして、「君は、こちらが期待したとおりの人間だ」と感心されるのだ。

 窓の外には、前線の爆撃で手足が吹っ飛んだ兵士たちが、うなだれて街を歩いている。このときチューリングは、決定的に窓のこちら側の「人間」=首脳陣の一人となったのだ。「人間」とは、どうしようもなく嘘をつき、民衆をだまし、彼らのうち誰が死に、誰が生き残るか、生殺与奪の権力を握り得る存在だ。そして、「自分だけしかできない」というエリート意識が、彼を「人間」らしくしていくのである。

 「マシンは考えるのか?」という問いに、チューリングは「マシンは人間のようには考えない。人間とは違う仕方で考える」と答える。むろんこう答える彼の胸の奥には、自らが子供の頃から他人とは違う存在であるために、いじめを受けてきたことや、性的マイノリティーであるために、国家から疎外されてきたことが去来していただろう。

 彼は、給食のニンジンとグリンピースを、皿の上で赤と緑にきちんと分けなければ食べ始められないような少年だった。その姿は、0と1とを正確に識別するマシンのようでもあり、またきれいに分類しなければ気が済まない潔癖さを備えた人間らしくもあろう。

 彼にとっては、あらゆる物事が、あのニンジンとグリンピースのように「差異」をもった存在なのだ。その皿を同級生がわざとひっくり返す。「暴力」とは、差異を無化する力である。少年が学んだのは、暴力は差異を無残にふみつけること、そして暴力には快楽が伴うが、その快楽のあとには虚しさしか残らないことだ。

 彼にとって、ナチスの暴力が、自らが幼少期から受けてきた暴力と重なったことは容易に想像できよう。差異があるからこそ、お互いの思考を「解読」する必要がある。

 チューリングは、必死にナチスの「思考」を解読した。だが、彼の悲劇は、解読した瞬間、差異が消滅してしまったことだった。その同一化の力こそが、あれだけ忌避してきたにもかかわらず、チューリングをも「暴力」的な「人間」に仕立てあげていく。チューリングテストの背後には、こうした生々しい暴力の影がある。チューリングにとって重要だったのは、「人間かマシンか」の決断=解答ではなく、テストに反して、「人間」と「マシン」の差異を差異として認めることだったのではないだろうか。

 ラストでチューリングは、薬物治療という化学的去勢の暴力に打ち負かされそうになりながらも、「クリストファー」という自分の「マシン」?と「解読=対話」を繰り返している。おそらく彼は、その姿を痛ましいと見る目線にこそ、暴力を感じるに違いない。

中島一夫