ポジティヴであることについて

 現在、ポジティヴであること、行動的、意志的であることを、否定的に捉える人は少ないだろう。それは、時代の空気として、そうあらねばならないようなイデオロギーとして機能しているとすら言える。ならば、このイデオロギーが生まれたのはいつなのか。

 少なくとも、その起源の一つに、1930年代の「行動主義文学論」があろう。口火を切ったのは、1934年6月号「改造」に、ラモン・フェルナンデスの『ジイドへの公開状』を紹介し、さらにその名も「行動」8月号に「仏文学の一転機」を書いた小松清だったとされる(臼井吉見近代文学論争』)。

 『ジイドへの公開状』は、アンドレ・ジイドがスターリンを支持し、共産主義者となっていくのに対して、その友人フェルナンデスが、自分はコミュニストに踏み切れないが、反ファシズムという一点で共闘する、と態度表明したものだ。その後フランスの知識人たちが大同団結、いわゆる人民戦線へとつながっていく。すなわち、「行動主義文学論」とは、フランス人民戦線の余波なのだ。

 そして日本でも、小松の紹介に応じるように、舟橋聖一が「意志的リベラリズム」を提唱し、サン・テグジュペリの『夜間飛行』を参照しつつ、小説『ダイヴィング』を書く。その『ダイヴィング』について、「能動精神」という新しいタームで評したのが、青野季吉「能動精神の擡頭について」(1934年11月「行動」)だった。さらに、それを受けて貴司山治が「進歩的文学者の共働について」(1935年6月「行動」)で、人民戦線的な「共働」を訴えていくという流れだ。

 平野謙は、当時を振り返ってこう述べている。

私はこういう青野季吉の一連の論文が、舟橋らの当初の反マルクス主義的傾向を反ファシズム的傾向に切りかえるのにあずかって力があったと思う。

行動主義文学とか行動的ヒューマニズムという言葉を意識的にさけて、文学的インテリゲンツィアの「能動精神」としてとらえたところに、青野季吉の当時のフレキシブルな苦衷みたいなものもにじんでいる。それを貴司山治はハッキリ「能動主義者」ととらえなおすことによって、「共働」の具体的提案まにまで踏みきったのである。(『文学・昭和十年前後』)

 言い換えれば、こうした一連の流れ――フランス人民戦線〜行動主義文学(小松)〜意志的リベラリズム(舟橋)〜能動精神(青野)〜能動主義者(貴司)―の中で、「反マルクス主義的傾向」、すなわち「転向」は「反ファシズム的傾向に切りかえ」られていったわけだ。

 現在支配的な、意志的(リベラリズム)、行動的、能動的といった価値は、歴史的な文脈で見るならば、転向の合理化の所産であり、政治的な言葉を「意識的にさけて」出てきたものだったといえる。現在の知識人の「共働」は、すべてこの「意志的リベラリズム」の系譜の上にあると言っても過言ではない。そのポテンツが下がったものが、今や一般に広く薄く浸透している「ポジティヴ」や「勇気」といったものだろう。

 青野は、舟橋の『ダイヴィング』をこう評していた。「この作品は社会の客観的な動揺のなかにおかれた一人の自由主義的なインテリが、それまでの消極性をすて、個人主義的なかかわりをかなぐりすてて、新しい積極的な世界(生活)へとダイヴィングして行く熱意と決意とを描いた作品であ」る。

 では、現在の「自由主義的なインテリ」は、「個人主義」を「かなぐりすてて」、いったいどこへ「ダイヴィング」するのだろうか。それはいまだ明確になってはいないものの、その「熱意」と「決意」が、グローバルな規模において広がっているのは明らかだ。

中島一夫