二重生活(ロウ・イエ)

 『ふたりの人魚』では上海、『天安門、恋人たち』では北京、『スプリング・フィーバー』では南京と、一作ごとに舞台を移し、ロウ・イエはこの新作で内陸部の地方都市、武漢へと向かった。

 中国の経済成長は、沿岸部から内陸部へと進展するとともに、地方にはさまざまな矛盾やひずみが生じることにもなる。『二重生活』の「二重」性とは、その渦中の二重性のことだ。ここでは、あらゆる人物がダブルスタンダードで生きることを余儀なくされている。

 ヨンチャオは、正妻と愛人を持ち、それぞれとの間に一人ずつ子供(正妻とは女児、愛人とは男児)を設けるという二重生活を送っている。驚くべきは、この二重生活が、男の子をほしがっていた彼の母に公認、後押しされていることだ。

 2014年春に一人っ子政策は緩和されたようだが、本作はその直前の風景であるとともに、政策の緩和が都市部からはじまったために地方に生まれたダブルスタンダードを描いているのだろう。「二重生活」というテーマには、こうした歴史性と地方性が刻印されている。

 正妻と愛人との二重生活は対照的に描かれる。正妻とは、家政婦つきの高級マンション暮らし、一方愛人とは古びた集合住宅暮らしだ。ヨンチャオの接し方も、ビジネスパートナーでもある正妻には極めて紳士的であり、愛人には平気で暴力がふるわれる。セックスも感情任せでレイプまがいに強引だ。ヨンチャオは、単に二重生活者なのではなく、近代/前近代のダブルスタンダードを生きる人間なのである。

 あるとき正妻は、愛人宅を訪れ、部屋を見渡してつぶやく。「彼は学生時代の同級生なの。この暮らしは懐かしすぎる」。彼女にとって愛人宅は、ビジネスで世に出る前夜の二人が、かつて通ってきた「道」を思い出させてやまない。それはまた、現在はイオンの建設が計画中という武漢が、今なおとどめている近代化されきれない名残であり残余でもあろう。

 だが、本作が本当に描きたいのは、こうした地方都市の二重性ですらないというべきだろう。その近代/前近代の矛盾が、まるでゴミ溜めのように二重性の「外」へと捨てられている、その残酷さなのだ。

 それを体現しているのが、いきなり冒頭で轢き殺される女子大生、シャオミンである。下層の家の出である彼女は、正妻と愛人に飽き足りないヨンチャオが、インターネットの出会い系サイトに手を出して付き合うようになった、さらなる浮気相手だった。

 殺害シーンは衝撃的だ。まず正妻に石で殴られ、その後愛人に高速道路の上から突き落とされ、最後はその高速に偶然通りかかった地方幹部の息子の車に吹っ飛ばされる。瀕死の状態ですがり付こうとする彼女に、ドラ息子がおびえるあまり駄目を押すことで、事態はより凄惨さを増していく。

 夫の浮気に対する、正妻と愛人の怒りの矛先が、無意識に結託するかのように、ともにこのシャオミンへと向かうこと。ここに、この作品の核心がある。ほとんど存在感のないシャオミンこそが、本作の主人公なのだ。冒頭とラストが、彼女のシーンであるのもそのためだ。

 シャオミンの死は、地方幹部による莫大な示談金によって、しかもそれが下層の遺族には見たこともないような高級マンションへと化けることで二重に隠蔽=口止めされる。また、実はその死が事故死ではなく、正妻と愛人による殺人であることを唯一目撃していたホームレスも、ヨンチャオの手で始末される。こうして彼女の死は、武漢のアッパー層によってなかったことにされていく。シャオミンの存在(感)が「消去」されること自体に、武漢という現代中国の地方都市の構造がある。

 監督自身も明言しているように、この作品はミステリーではない。ミステリーとは、謎であった事件の真相が、探偵のような存在によって解明可能であることをついに疑うことのないジャンルだ。解明できないということすら、解明可能であるはずだという前提に基づいている。例えば本作を、冒頭で殺される女は誰であり、またいったい彼女はなぜ、また誰に殺されたのかというふうに見てしまえば、それはありきたりの不倫ミステリーにしか見えないだろう。

 だがこの監督は、ミステリーというジャンル自体に疑問を抱いている。「私個人としては、ミステリーというアメリカ風のジャンル区分に関しては、あまり賛同できません。ジャンルでもって、現代中国社会のある物語を描くことは不可能だからです」。

 中国の現実は、西洋的なミステリー=探偵ごときに解明=表象できるようなものではない。ミステリーは、ついに西洋的な表象可能性の枠内の産物でしかない。実際に、刑事とシャオミンの元彼は、「探偵」として事件を解明しようとするが、それは決して真実に届くことがない。中国には、ミステリーや探偵小説が、とても謎解きし得ないような現実がうごめいている。東風はミステリーを無効化する――。そう、ロウ・イエは言っているのだ。

 ラストで、霊としてのシャオミンは、時代遅れの西洋=ミステリーをあざ笑うかのように、軽やかに走り去っていく。そのまま空へと浮上していく彼女は、今後も武漢の街を、上からずっと見下ろしているのだろうか。

中島一夫