平等への抵抗

 ジジェクは、バリバールの「平等自由egaliberte」や、バディウ共産主義の前提とした「平等の格率」とは、マルクスエンゲルスが退けたブルジョアの価値にほかならないと述べている(「想像力の種子」『アメリカのユートピア 二重権力と国民皆兵制』)。今もって(今こそ?)重要な視点だろう。

「…平等という概念は、実際にはブルジョアによる階級抑圧の手段であり、階級の廃止という共産主義の目標とはかなり違うものだとマルクスは考える。」(アレン・ウッド)

社会主義社会を平等の国と考えるのは、古い「自由、平等、友愛」に結びついた一面的なフランス的観念であって、その時代とその場面との発展段階としては正当でしたが、いまでは、初期の社会主義学派のあらゆる一面性と同様に、克服されねばならない観念です。」(エンゲルス

 平等主義的正義は、不平等な事例に平等な基準を当てはめるブルジョア的価値に基づいている。その自由―平等は、自由で平等な市場原理の浸透による市民(ブルジョア)社会の価値観にすぎない。そうした自由と平等こそが、「近代的統治のスタイル」(すが秀実天皇制の隠語』)だったのである。マルクスは言う。

権利はその性質上、等しい尺度をつかう場合にだけなりたちうる。ところが、不平等な諸個人(そしてもし不平等でないなら別々の個人ではないだろう)を等しい尺度で測れるのは、ただ彼らを等しい視点のもとにおき、ある一つの特定の面だけからこれをとらえるかぎりにおいてである。たとえばこの場合には、人々はただ労働者としてだけ考察され、彼らのそれ以外の点には目は向けられず、ほかのことはいっさい無視される。さらに、ある労働者は結婚しており、他の労働者は結婚していないとか、ある者は他の者より子供が多い等々。だから、労働の出来高は等しく、したがって社会的消費元本にたいする持分は平等であっても、ある者は他の者より事実上多く受け取り、ある者は他の者より富んでいる、等々。すべてこういう欠陥を避けるためには、権利は平等であるよりも、むしろ不平等でなければならないだろう。(『ゴータ綱領批判』)

 マルクスが見ていたのは、平等主義的正義とは、かえって階級の不平等を隠蔽するように機能するということである。だからこそ、階級を露呈させず、したがって階級闘争を抑圧するための、ブルジョア的な「統治」の装置として働くのである。ジジェクは言う。

資本主義は民主的平等を唱えるが、この平等の法的形式はまさに不平等の形式なのである。…この理由により、マルクスは「現実の平等」を求めなかった。彼の考えは、資本主義の現実の不可能としての平等が可能になるべきだ、というのではなかった。彼が唱えたのは、平等という地平そのものを乗り越える動きだった。

 マルクスが唱えた共産主義の格率が、「各人の必要に応じて各人へ、各人の能力に応じて各人から」という、あくまで「不平等」なものでなければならなかったゆえんである。この「不平等」は、まずもってブルジョア的価値の「平等」への抵抗だったのだ。

中島一夫